ころにねじこむと、こそこそと入り口に行って長靴《ながぐつ》をはいた。靴の皮は夕方の寒さに凍《こお》って、鉄板のように堅く冷たかった。
 雪は燐《りん》のようなかすかな光を放って、まっ黒に暮れ果てた家々の屋根をおおうていた。さびしいこの横町は人の影も見せなかった。しばらく歩いて例のデパートメント・ストアの出店の角《かど》近くに来ると、一人の男の子がスケート下駄《げた》(下駄の底にスケートの歯をすげたもの)をはいて、でこぼこ[#「でこぼこ」に傍点]に凍った道の上をがりがり[#「がりがり」に傍点]と音をさせながら走って来た。その子はスケートに夢中になって、君のそばをすりぬけても君には気がついていないらしい。
 「氷の上がすべれだした時はほんとに夢中になるものだ」
 君は自分の遠い過去をのぞき込むようにさびしい心の中にもこう思う。何事を見るにつけても君の心は痛んだ。
 デパートメント・ストアのある本通りに出ると打って変わってにぎやかだった。電灯も急に明るくなったように両側の家を照らして、そこには店の者と購買者との影が綾《あや》を織った。それは君にとっては、その場合の君にとっては、一つ一つ見知らぬものばかりのようだった。そこいらから起こる人声や荷橇《にぞり》の雑音などがぴんぴん[#「ぴんぴん」に傍点]と君の頭を針のように刺激する。見物の前に引き出された見世物小屋の野獣のようないらだたしさを感じて、君は眉根《まゆね》の所に電光のように起こる痙攣《けいれん》を小うるさく思いながら、むずかしい顔をしてさっさ[#「さっさ」に傍点]とにぎやかな往来を突きぬけて漁師町《りょうしまち》のほうへ急ぐ。
 しかし君の家が見えだすと君の足はひとりで[#「ひとりで」に傍点]にゆるみがちになって、君の頭は知らず知らず、なお低くうなだれてしまった。そして君は疑わしそうな目を時々上げて、見知り越しの顔にでもあいはしないかと気づかった。しかしこの界隈《かいわい》はもう静まり返っていた。
 「だめだ」
 突然君はこう小さく言って往来のまん中に立ちどまってしまった。そうして立ちすくんだその姿の首から肩、肩から背中に流れる線は、もしそこに見守る人がいたならば、思わずぞっ[#「ぞっ」に傍点]として異常な憂愁と力とを感ずるに違いない不思議に強い表現を持っていた。
 しばらく釘《くぎ》づけにされたように立ちすくんでいた君は、やがて自分自身をもぎ取るように決然と肩をそびやかして歩きだす。
 君は自分でもどこをどう歩いたかしらない。やがて君が自分に気がついて君自身を見いだした所は海産物製造会社の裏の険しい崕《がけ》を登りつめた小山の上の平地だった。
 全く夜になってしまっていた。冬は老いて春は来ない――その壊《こわ》れ果てたような荒涼たる地の上高く、寒さをかすかな光にしたような雲のない空が、息もつかずに、凝然として延び広がっていた。いろいろな光度といろいろな光彩でちりばめられた無数の星々の間に、冬の空の誇りなる参宿《オライオン》が、微妙な傾斜をもって三つならんで、何かの凶徴のようにひときわぎらぎら[#「ぎらぎら」に傍点]と光っていた。星は語らない。ただはるかな山すそから、干潮になった無月の潮騒《しおざい》が、海妖《かいよう》の単調な誘惑の歌のように、なまめかしくなでるように聞こえて来るばかりだ。風が落ちたので、凍りついたように寒く沈み切った空気は、この海のささやきのために鈍く震えている。
 君はその平地の上に立ってぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]あたりを見回していた。君の心の中にはさきほどから恐ろしい企図《たくらみ》が目ざめていたのだ。それはきょうに始まった事ではない。ともすれば君の油断を見すまして、泥沼《どろぬま》の中からぬるり[#「ぬるり」に傍点]と頭を出す水の精のように、その企図は心の底から現われ出るのだ。君はそれを極端に恐れもし、憎みもし、卑しみもした。男と生まれながら、そんな誘惑を感ずる事さえやくざ[#「やくざ」に傍点]な事だと思った。しかしいったんその企図が頭をもたげたが最後、君は魅入られた者のように、もがき苦しみながらも、じりじり[#「じりじり」に傍点]とそれを成就するためには、すべてを犠牲にしても悔いないような心になって行くのだ、その恐ろしい企図《たくらみ》とは自殺する事なのだ。
 君の心は妙にしん[#「しん」に傍点]と底冷えがしたようにとげとげしく澄み切って、君の目に映る外界の姿は突然全く表情を失ってしまって、固い、冷たい、無慈悲な物の積み重なりに過ぎなかった。無際限なただ一つの荒廃――その中に君だけが呼吸を続けている、それがたまらぬほどさびしく恐ろしい事に思いなされる荒廃が君の上下四方に広がっている。波の音も星のまたたきも、夢の中の出来事のように、君の知覚の遠い
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