そのままにしておいてもらって、またかじりつくように原稿紙に向かった。大きな男の姿が部屋《へや》からのっそり[#「のっそり」に傍点]と消えて行くのを、視覚のはずれに感じて、都会から久しぶりで来て見ると、物でも人でも大きくゆったり[#「ゆったり」に傍点]しているのに今さらながら一種の圧迫をさえ感ずるのだった。
渋りがちな筆がいくらもはかどらないうちに、夕やみはどんどん夜の暗さに代わって、窓ガラスのむこうは雪と闇《やみ》とのぼんやりした明暗《キャロスキュロ》になってしまった。自然は何かに気を障《さ》えだしたように、夜とともに荒れ始めていた。底力のこもった鈍い空気が、音もなく重苦しく家の外壁に肩をあてがってうん[#「うん」に傍点]ともたれかかるのが、畳の上にすわっていてもなんとなく感じられた。自然が粉雪をあおりたてて、所きらわずたたきつけながら、のたうち回ってうめき叫ぶその物すごい気配《けはい》はもう迫っていた。私は窓ガラスに白もめんのカーテンを引いた。自然の暴威をせき止めるために人間が苦心して創《つく》り上げたこのみじめ[#「みじめ」に傍点]な家屋という領土がもろく小さく私の周囲にながめやられた。
突然、ど、ど、ど‥‥という音が――運動が(そういう場合、音と運動との区別はない)天地に起こった。さあ始まったと私は二つに折った背中を思わず立て直した。同時に自然は上歯を下くちびるにあてがって思いきり長く息を吹いた。家がぐらぐらと揺れた。地面からおどり上がった雪が二三度はずみを取っておいて、どっと一気に天に向かって、謀反《むほん》でもするように、降りかかって行くあの悲壮な光景が、まざまざと部屋《へや》の中にすくんでいる私の想像に浮かべられた。だめだ。待ったところがもう君は来やしない。停車場からの雪道はもうとうに埋まってしまったに違いないから。私は吹雪《ふぶき》の底にひたりながら、物さびしくそう思って、また机の上に目を落とした。
筆はますます渋るばかりだった。軽い陣痛のようなものは時々起こりはしたが、大切な文字は生まれ出てくれなかった。こうして私にとって情けないもどかしい時間が三十分も過ぎたころだったろう。農場の男がまたのそりと部屋にはいって来て客来を知らせたのは。私の喜びを君は想像する事ができる。やはり来てくれたのだ。私はすぐに立って事務室のほうへかけつけた。事務室の障子を
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