さんに視線を移すのにまごついた。彼は自分がかつて持たなかった不思議な経験のために、今まで女性に対して示していた態度の劇変《げきへん》しようとしているのを感ぜずにはいられなかった。少なくともおぬいさんという女性に対しては。
星野のおぬいさんに対する態度はお前が考えたようであるかもしれない。しかしながらおぬいさんの心が星野の方にどう動いているかをたしかに見窮めて知っているか……
園ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。そしてふと動きかけた心の奥の喜びを心の奥に葬ってしまった。それはもとより淋しいことだった。しかしむずかしいことではないように園には思えた。それらのことは瞬《またた》きするほどの短かい間に、園の心の奥底に俄然として起り俄然として消えた電光のようなものだったから。そしておぬいさんがそれを気取《けど》ろうはずはもとよりなかった。
けれどもそれまで何んのこだわりもなく続いてきた二人の会話は、妙にぽつんと切れてしまった。園は部屋の中がきゅうに明るくなったように思った、おぬいさんが遠い所に坐っているように思った。
その時農学校の時計台から五時をうつ鐘の声が小さくではあるが冴《さ》え冴えと聞こえてきた。
おぬいさんの家の界隈《かいわい》は貧民区といわれる所だった。それゆえ夕方は昼間にひきかえて騒々しいまでに賑《にぎ》やかだった。音と声とが鋭角をなしてとげとげしく空気を劈《つんざ》いて響き交わした。その騒音をくぐりぬけて鐘の音が五つ冴え冴えと園の耳もとに伝わってきた。
それは胸の底に沁《し》み透るような響きを持っていた。鐘の音を聞くと、その時まで考えていたことが、その時までしていたことが、捨ておけない必要から生まれたものだとは園には思われなくなってきた。来なければならぬところに来ているのではない。会わなければならぬ人に会っているのではない。言わなければならぬことを言っているのではない。上ついた調子になっていたのだ。それはやがて後悔をもって報《むく》いられねばならぬ態度だったのではないか。園は一人の勤勉な科学者であればそれで足りるのに、兄のように畏敬《いけい》する星野からの依頼だとはいえ、格別の因縁《いんねん》もない一人の少女に英語を教えるということ。ある勇みをもって……ある喜びをすらもって……柄《がら》にもない啓蒙的《けいもうてき》な仕事に時間を潰そうとしていること。それらは呪《のろ》うべき心のゆるみの仕事ではなかったか。……園は自分自身が苦々しく省《かえり》みられた。
やがて園は懺悔《ざんげ》するような心持で、努めて心を押し鎮《しず》めて、いつもどおりの静かな言葉に還りながら言いだした。
「話が途切《とぎ》れましたが、……僕は今学校の鐘の音に聞きとれていたもんですから……あれを聞くと僕は自分の家のことを思いだします。僕の家は浄土宗の寺です。だから小さい時から釣鐘の音やあの宗旨《しゅうし》で使う念仏の鉦《かね》の音は聞き慣《な》れていたんです。それは今でも耳についていて忘れません。そのためか鐘の音を聞くと僕は妙に考えさせられます。特別、学校のあの鐘には僕はある忘れられない経験を持っています。……そうですね、その話はやめておきましょう……とにかく僕はあの鐘を聞くと、父と兄とにむりに頼んで、こんな所に修業に出てきたのを思いだすんです。……」
ここまで重いながら言葉を運んでくると、園はまた言わないでもいいことを言い続けているような気|尤《とが》めがした。園は今日は自分ながらどうかしていると思った。それでこれまでの無駄事《むだごと》の取りかえしをするようにと、
「そんなわけで僕は研究室にさえいればいい人間ですし、そうしていなければいけない人間です。ですから星野君はこの手紙のようなことを言っていますが、僕は辞退したいと思います。どうか悪《あ》しからず」
とできるだけ言葉少なに思いきっていってしまった。
伏目になったおぬいさんの前髪のあたりが小刻みに震《ふる》えるのを見たけれども、そして気の毒さのあまり何か言い足そうとも思ってみたけれども、園の心の中にはある力が働いていてどうしてもそうさせなかった。
園は静かに茶を啜《すす》り終った。星野の手紙をおぬいさんの方に押しやった。古ぼけた黒い毛繻子《けじゅす》の風呂敷に包んだ書物を取り上げた。もう何んにもすることはなかった。座を立った。
暗い夜道を急ぎ足で歩きながら園は地面を見つめてしきりに右手を力強く振りおろした。
きゅうに遠くの方で急雨のような音がした。それがみるみる高い音をたてて近づいてきた。と思う間もなく園の周囲には霰《あられ》が篠《しの》つくように降りそそいだ。それがまた見る間に遠ざかっていって、かすかな音ばかりになった。
第二陣、第三陣が間をおいて襲ってきた。
大通りまで来て園は突然足をとどめた。おぬいさんの家から遠ざかるにしたがって、小刻みに震う前髪がだんだんはっきりと眼につきだして、とうとうそのまま歩きつづけてはいられなくなったからだ。星野の行ってしまうということだけであの感じやすい心は十分に痛んでいるのだった。それは十分に察していた。察していながら、自分は断《ことわ》りをいうにしても断りのいいようもあろうに、あんな最後の言葉を吐いてしまったのだ。けれどもあんな最後の言葉を吐かせたのは誰の罪だろう。たんに英語を園に教えろといった星野にその罪はない。もとよりおぬいさんでもない。あの座敷にいた間じゅう、始終あらぬ方にのみ動揺していた自分の心がさせた仕業《しわざ》ではなかったか。自分自身を鞭《むちう》たなければならないはずであったのに、その笞《むち》を言葉に含めて、それをおぬいさんの方に投げだしたのではなかったか。そういえば園は千歳の星野の番地をおぬいさんに教えることをせずにあの家を出た。おぬいさんはそれを尋ねはしなかった。尋ねなければ教えるには及ばないと星野はいっていた。だから園は平気でいてもいいようにも思われる。しかし園にあの最後の言葉を投げつけられたおぬいさんがそれを尋ねる余裕を持ちえられるかどうか。……それよりも園はおぬいさんがそれを尋ねるだろうと最後の瞬間まで待ち設けていたのだ。そのことは始めからしまいまで気にかけていたのだ……ある好奇心なしにではなく……しかもとうとう教えずにしまった。そうした仕打ちの後ろには何んにもないといいきることができるか。……園はぐっと胸に手を重くあてがわれたように思った。
またのついでの時に知らせようか。……それではいけない。気がすまない。園は大通りの暗闇の中に立って真黒な地面を見つめながら、右の腕をはげしく三度振り卸《お》ろした。
園はそのままもと来た道に取って返した。
* * *
坂というものの一つもない市街、それが札幌だ。手稲《ていね》藻巌《もいわ》の山波を西に負って、豊平川を東にめぐらして、大きな原野の片隅に、その市街は植民地の首府というよりも、むしろ気づかれのした若い寡婦《かふ》のようにしだらなく丸寝している。
白官舎はその市街の中央近いとある街路の曲り角にあった。開拓使時分に下級官吏の住居として建てられた四戸の棟割長屋ではあるが、亜米利加《アメリカ》風の規模と豊富だった木材とがその長屋を巌丈《がんじょう》な丈け高い南京|下見《したみ》の二階家に仕立てあげた。そしてそれが舶来の白ペンキで塗り上げられた。その後にできた掘立小屋のような柾葦《まさぶ》き家根の上にその建物は高々と聳《そび》えている。
けれども長い時間となげやりな家主の注意とが残りなくそれを蝕《むしば》んだ。ずり落ちた瓦《かわら》は軒に這い下り、そり返った下見板の木目と木節は鮫膚《さめはだ》の皺《しわ》や吹出物の跡のように、油気の抜けきった白ペンキの安白粉《やすおしろい》に汚なくまみれている。けれども夜になると、どんな闇の夜でもその建物は燐《りん》に漬《つ》けてあったようにほの青白く光る。それはまったく風化作用から来たある化学的の現象かもしれない。「白く塗られたる墓」という言葉が聖書にある……あれだ。
深い綿雲に閉ざされた闇の中を、霰《あられ》の群れが途切れては押し寄せ、途切れては押し寄せて、手稲山から白石の方へと秋さびた大原野を駈け通った。小躍《こおど》りするような音を夜更けた札幌の板屋根は反響したが、その音のけたたましさにも似ず、寂寞《せきばく》は深まった。霰《あられ》……北国に住み慣れた人は誰でも、この小賢《こざ》かしい冬の先駆の蹄《ひずめ》の音の淋しさを知っていよう。
白官舎の窓――西洋窓を格子のついた腰高窓に改造した――の多くは死人の眼のように暗かったが、東の端《はず》れの三つだけは光っていた。十二時少し前に、星野の部屋の戸がたてられて灯が消えた。間もなく西山と柿江とのいる部屋の破れ障子が開いて、西山がそこから頭を突きだして空を見上げながら、大きな声で柿江に何か物を言った。柿江が出てきて、西山と頭をならべた。二人は大きな声をたてて笑った。そして戸をたてた。灯が消えた。
二階の園の部屋は前から戸をたててあったが、その隙間から光が漏《も》れていた。針のように縦に細長い光が。
霰はいつか降りやんでいた。地の底に滅入《めい》りこむような寒い寂寞《せきばく》がじっと立ちすくんでいた。
農学校の大時計が一時をうち、二時をうち、三時をうった。遠い遠い所で遠吠えをする犬があった。そのころになって園の部屋の灯は消えた。
気づかれのした若い寡婦《かふ》ははじめて深い眠りに落ちた。
* * *
「おたけさんのクレオパトラの眼がトロンコになったよ。もう帰りたまえ。星野のいない留守に伴れてきたりすると、帰ってから妬《や》かれるから」
「柿江、貴様《きさま》はローランの首をちょん切った死刑執行人が何んという名前の男だったか知っているか」
前のは人見が座を立ちそうにしながら、抱きよせたクレオパトラの小さな頭を撫《な》でつつ、にやりと愛嬌《あいきょう》笑《わら》いをしているおたけにいった言葉だが、それをおっ被《かぶ》せるように次の言葉は西山が放った。めちゃくちゃだった。けれども西山は愉快だった。隅の方で、西山が図書館から借りてきたカアライルの仏蘭西《フランス》革命史をめくっていた園が、ふと顔を上げて、まじまじと西山の方を見続けていた。濛々《もうもう》と立ち罩《こ》めた煙草《たばこ》の烟《けむり》と、食い荒した林檎《りんご》と駄菓子。
柿江は腹をぺったんこに二つに折って、胡坐《あぐら》の膝で貧乏ゆすりをしながら、上眼使いに指の爪を噛《か》んでいた。
ほど遠い所から聞こえてくる鈍い砲声、その間に時々竹を破るように響く小銃、早拍子な流行歌を唄いつれて、往来をあてもなく騒ぎ廻る女房連や町の子の群れ、志士やごろつきで賑《にぎわ》いかえる珈琲《コーヒー》店、大道演説、三色旗、自由帽、サン・キュロット、ギヨティン、そのギヨティンの形になぞらえて造った玩具や菓子、囚人馬車、護民兵の行進……それが興奮した西山の頭の中で跳《は》ね躍っていた。いっしょに演説した奴らの顔、声、西山自身の手振り、声……それも。
「おい、何とか言いな、柿江」
「貴様の演説が一番よかったよ」
柿江は爪を噛みつづけたまま、上眼と横眼とをいっしょにつかって、ちらっと西山を見上げながら、途轍《とてつ》もなくこんなことをいった。
猿みたいだった。少しそねんでいることが知れる。西山は無頓着であろうとした。
「そんなことを聞いているんじゃない。知らずば教えてつかわそう。サムソンというんだ」
綺麗な疳高《かんだか》い、少し野趣《やしゅ》を帯びた笑声が弾《はじ》けるように響いた。皆んながおたけの方を見た。人見がこごみ加減に何か話しかけていた。異名ガンベ(ガンベッタの略称)の渡瀬がすぐその側にいて、声を出さずに、醜い顔じゅうを笑いにしていた。
「皆んなちょっと聴《き》けちょっと聴け、人見が今西山の真似《まね》をしているから……うまいもんだ」
ガン
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