眼がちにますます急いだ。
 大通りまで出ると、園は始めて研究室の空気から解放されたような気持ちになった。そして自分が憚《はばか》らねばならぬような人たちから遠ざかったような心安さで、一町にあまる広々とした防火道路を見渡した。いつでも見落すことのできないのは、北二条と大通りとの交叉点《こうさてん》にただ一本立つエルムの大樹だった。その夕方も園は大通りに出るとすぐ東の方に眼を転じた。エルムは立っていた。独り、静かに、大きく、寂しく……大密林だった札幌原野の昔を語り伝えようとするもののごとく、黄ばんだ葉に鬱蒼《うっそう》と飾られて……園はこの樹を望みみると、それが経てきた年月の長さを思った。その年月の長さがひとりでにその樹に与えた威厳を思った。人間の歴史などからは受けることのできない底深い悲壮な感じに打たれた。感激した時の癖として、園はその樹を見るごとに、右手を鍵形に折り曲げて頭の上にさしかざし、二度三度物を打つように烈しく振り卸《お》ろすのだった。
 その夕方も園は右手を振ろうとする衝動をどこかに感じたけれども、何かまたはばむものがあってそれをさせなかった。衝動はいたずらに内訌《ないこう》するばかりだった、彼は急いだ、大通りを南へと。
 三隅の家の軒先で、園はもう一度|衣嚢《かくし》の手紙に手をやった。釦《ボタン》をきちんとかけた。そして拭掃除の行き届いた硝子《ガラス》張りの格子戸を開けて、黙ったまま三和土《たたき》の上に立った。
 待ち設《もう》けたよりももっと早く――園は少し恥らいながら三和土の片隅に脱ぎ捨ててある紅緒《べにお》の草履《ぞうり》から素早く眼を転ぜねばならなかった――しめやかながらいそいそ近づく足どりが入口の障子を隔てた畳の上に聞こえて、やがて障子が開いた。おぬいさんがつき膝をして、少し上眼をつかって、にこやかに客を見上げた。つつましく左手を畳についた。その手の指先がしなやかに反って珊瑚《さんご》色に充血していた。
 意外なというごくごくささやかな眼だけの表情、かならずそうであるべきはずのその人ではなかったという表情、それが現われたと思うとすぐ消えた。園はとにもかくにもおぬいさんに微かながらも失望を感じさせたなと思った。それはまた当然なことでなければならない。園を星野以上に喜んで迎えるわけがおぬいさんにはあるはずがない。おまけにその日は星野が英語を教えに来べき日なのだ。
「まあ……どうぞ」
 といっておぬいさんは障子の後に身を開いた。園に対しても十分の親しみを持っているのを、その言葉や動作は少しの誇張も飾りもなく示していた。……園は上り框《かまち》に腰をかけて、形の崩れた編上靴を脱ぎはじめた。
 いつ来てみても園はこの家に女というものばかりを感じた。園の訪れる家庭という家庭にはもちろん女がいた。しかしそこには同時に男もいるのだ。けれどもおぬいさんは産婆を職業としているその母と二人だけで暮しているのだから。
 客間をも居間をも兼ねた八畳は楕円形《だえんけい》の感じを見る人に与えた。女の用心深さをもってもうストーヴが据えつけてあった。そしてそれが鉛墨《えんぼく》でみごとに光っていた。柱のめくり暦は十月五日を示して、余白には、その日の用事が赤心《あかしん》の鉛筆で細かに記してあった。大きな字がお母さんで、小さな字がおぬいさんだということさえきちんと判っていた。部屋の中央にあるたも[#「たも」に傍点]のちゃぶ台には読みさしの英語の本が開いたまま伏せてあったが、その表紙には反物のたとう紙で綿密に上表紙がかけてあった。男である園は、その部屋の中では異邦人であることをいつでも感じないではいられなかった。
 けれどもその感じは彼を不愉快にしないばかりでなく、反対に彼を慰めた。ただ若いおぬいさんが普通の処女であったなら、その処女と二人でさし向いに永く坐っているということは、園には自分の性癖から堪《た》えがたいことだったろう。彼はどんなに無害なことでも心にもない口をきくことができなかったから。また処女に特有な嬌羞《はにかみ》というものをあたりさわりなく軟らげ崩して、安気な心持で彼と向い合うようにさせる術《すべ》をまったく知らなかったから。そして一般に日本の処女が持ち合わしている話題は一つとして園の生活の圏内にはいってくるような性質のものではなかったから。童貞でありながら園は女性に対してむだなはにかみはしなかった。しかし相手がはにかむ場合には園は黙って引きさがるほかはなかった。
 けれどもおぬいさんの処ではそんな心配は無用だったから園はなぐさめられたのだ。彼は持ちだされた座蒲団の処にいって坐った。おぬいさんは机の上の読みさしの本を慌てて押し隠すようなこともせずに、静かにそれを取り上げて部屋の隅に片づけた。
「学校の方で星野さんにお遇いになりまして」
 簡単な挨拶が終るとおぬいさんの尋ねた言葉はこれだった。園はまず星野のことが尋ねられるのがことのほか快かった。その理由は自分にも解らなかったけれども。
「星野君は今日も学校を休みました。この二三日また身体の具合がよくないそうで」
「まあ……」
 おぬいさんの顔には痛ましいという表情が眼と眉との間にあからさまに現われて、染まりやすい頬がかすかに紅く染まった。園はそれをも快く思った。
「だから今日の英語は休みたいからといって、今朝白官舎を出る時この手紙を頼まれてきたんですが……」
 そういいながら園は内|衣嚢《かくし》から星野の手紙を取りだした。取りだしてみると自分の膚の温《ぬく》みがそれに沁《し》みついていたのに気がついた。園はそのまま手紙をおぬいさんに渡すのを躊躇《ちゅうちょ》した。そしてそれを手渡しする代りに、そっとちゃぶ台の冷たい板の上においた。
 何んの気なしに少しいそがしく手をさしだしたおぬいさんは、園の軽い心変りにちょっと度を失ってみえたが、さしだした手の向きをかえて机の上からすぐ手紙を拾い上げた。すぐ拾い上げはしたが、自分の膚の温みはあの手紙からは消えているなと園は思った。園はそう思った。園は右手の食指に染みついているアニリン染色素をじっと見やった。
 おぬいさんは園のいる前で何んの躊躇もなく手紙の封を切った。封筒の片隅を指先で小さくむしっておいて、結いたての日本髪(ごくありきたりの髷だったが、何という名だか園は知らなかった)の根にさした銀の平打の簪《かんざし》を抜いて、その脚でするすると一方を切り開いた。その物慣れた仕草《しぐさ》から、星野からの手紙が何通もああして開かれたのだと園に思わせた。それもしかし彼にとってゆめゆめ不快なことではなかった。
 おぬいさんは立ってラムプに灯をともした。おぬいさんは生まれ代ったようになった……すべての点において。部屋の中も著《いちじる》しく変った。おそらく夜の灯の下で変らないのはその場合園一人であったに違いない。
 藍がかってさえ見える黒い瞳《ひとみ》は素《す》ばしこく上下に動いて行《ぎょう》から行へ移ってゆく。そしてその瞳の働きに応ずるように、「まあ」というかすかな驚きの声が唇の後ろで時々破裂した。半分ほど読み進んだころおぬいさんはしっかりと顔を持ち上げてその代りに胸を落した。
「星野さんは明日お家にお帰りなさるそうですのね」
「そういっていました」
 園もまともにおぬいさんを見やりながら。
「だいじょうぶでしょうか」
「僕も心配に思っています」
 この時園とおぬいさんとは生れて始めてのように深々と顔を見合わせた。二人は明かに一人の不幸な友の身の上を案じ合っているのを同情し合った。園はおぬいさんの顔に、そのほかのものを読むことができなかったが、おぬいさんには園がどう映《うつ》ったろうか。と不埒にも園の心があらぬ方に動きかけた時は、おぬいさんの眼はふたたび手紙の方へ向けられていた。園はまた自分の指先についている赤い薬料に眼を落した。
 おぬいさんがだんだん興奮してゆく。きわめて薄手な色白の皮膚が斑《まだ》らに紅くなった。斑らに紅くなるのはある女性においては、きわめて醜《みにく》くそして淫《みだ》らだ。しかしある女性においては、赤子のほかに見出されないような初々《ういうい》しさを染めだす。おぬいさんのそれはもとより後者だった。高低のある積雪の面に照り映えた夕照のように。
 読み終ると、おぬいさんは折れていたところで手紙を前どおりに二つに折って、それを掌の間に挾んでしばらくの間膝の上に乗せて伏眼になっていたが、やがて封筒に添《そ》えてそれを机の上に戻した。そして両手で火照《ほて》った顔をしっかりと押えた。互に寄せ合った肘《ひじ》がその人の肩をこの上なく優しい向い合せの曲線にした。
 園はおぬいさんのいうままに星野の手紙を読まねばならなかった。
[#ここから1字下げ]
「前略この手紙を園君に託してお届けいたし候《そうろう》連日の乾燥のあまりにや健康思わしからず一昨日は続けて喀血《かっけつ》いたし候ようの始末につき今日は英語の稽古《けいこ》休みにいたしたくあしからず御容赦《ごようしゃ》くださるべく候なお明日は健康のいかんを問わず発足して帰省いたすべき用事これあり滞在日数のほども不定に候えば今後の稽古もいつにあいなるべきやこれまた不定と思召さるべく候ついては後々の事園君に依頼しおき候えば同君につきせいぜい御勉強しかるべくと存じ候同君は御承知のとおり小生会心の一友年来起居をともにしその性格学殖は貴女においても御知悉《ごちしつ》のはず小生ごときひねくれ者の企図して及びえざるいくたの長所あれば貴女にとりても好箇の畏友《いゆう》たるべく候(この辺まで進んだ時、おぬいさんが眼を挙げて自分を見たのだと思いながらなお読みつづけた)とかくは時勢転換の時節到来と存じ候男女を問わず青年輩の惰眠《だみん》を貪《むさぼ》り雌伏《しふく》しおるべき時には候わず明治維新の気魄は元老とともに老い候えば新進気鋭の徒を待って今後のことは甫《はじ》めてなすべきものと信じ候小生ごときはすでに起たざるべからざるの齢《よわい》に達しながら碌々《ろくろく》として何事をもなしえざること痛悔《つうかい》の至りに候ことに生来病弱|事志《ことこころざし》と違い候は天の無為を罰してしかるものとみずから憫《あわれ》むのほかこれなく候貴女はなお弱年ことに我国女子の境遇不幸を極めおり候えば因習上小生の所存御理解なりがたき節《ふし》もやと存じむしろ御同情を禁じがたく候えどもけっして女子の現状に屏息《へいそく》せず艱難《かんなん》して一路の光明を求め出でられ候よう祈りあげ候時下晩秋黄落しきりに候御自護あいなるべく御母堂にもくれぐれもよろしく御伝えくださるべく候
 一八九九年十月四日夜
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]星野生
[#天から3字下げ]三隅ぬい様
 どんな境遇をも凌《しの》ぎ凌いで進んでいこうとするような気禀《きひん》、いくらか東洋風な志士らしい面影《おもかげ》、おぬいさんをはるかの下に見おろして、しかも偽《いつわ》らない親切心で物をいう先生らしい態度が、蒼古《そうこ》とでも評したいほど枯れた文字の背《うし》ろに燃えていると園は思った。
 同時に園の心はまた思いも寄らぬ方に動いていた。それはある発見らしくみえた。星野とおぬいさんとの間柄は園が考えていたようではないらしい。おぬいさんは平気で園の前でこの手紙を開封した。そしてその内容は今彼がみずから読んだとおりだ。もし以前におぬいさんに送った星野の手紙がもっと違った内容を持っていたとすれば、おぬいさんがこの手紙を開封する時、ああまで園の存在に無頓着《むとんちゃく》でいられるだろうか。
 園はまたくだらぬことにこだわっていると思ったが、心の奥で、自分すら気づかぬような心の奥で、ある喜びがかすかに動くのをどうすることもできなかった。それは何んという暖かい喜びだったろう。その喜びに対する微笑《ほほえ》ましい気持が顔へまで波及《はきゅう》するかと思われた。園は愚《おろ》かなはにかみを覚えた。
 園は自分の前にしとやかに坐っているおぬい
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