笑みを今ごろどこかで漏《も》らしているのだろう。しかも話の合う仲間の処に行って、三文にもならないような道徳面《どうとくづら》をして、女を見てもこれが女かといったような無頓着さを装っている柿江の野郎が、一も二もなく俺の策略にかかって、すっかり面皮《つらのかわ》を剥がれてしまったと、仲間をどっ[#「どっ」に傍点]と笑わすことだろう。そう思うと柿江は自分というものがめちゃくちゃになってしまったのを感じた。そういえばかんかんと日の高くなった時分に、その家の閾《しきい》を跨《また》いで戸外に出る時のいうに言われない焦躁《しょうそう》がまのあたりのように柿江の心に甦《よみがえ》った。
それでも柿江の足は依然として行くべき方に歩いていた。いつの間にか彼は遊廓の南側まで歩いてきていた。往来の少ない通りなので、そこには枯れ枯れになった苜蓿《うまごやし》が一面に生えていて、遊廓との界に一間ほどの溝《みぞ》のある九間道路が淋しく西に走っていた。そこを曲りさえすれば、鼻をつままれそうな暗さだから、人に見尤《みとが》められる心配はさらになかった。柿江は眼まぐろしく自分の前後を窺《うかが》っておいて、飛びこむようにその道路へと折れ曲った。溜息《ためいき》がひとりでに腹の底から湧いてでた。
何、かまうものか。ガンベは日ごろからちゃらっぽこばかりいっている男だから、あいつが何んといったって、俺がそんなことをしたと信ずる奴はなかろう。もしガンベが何か言いだしたら俺はそうだガンベのいうとおり昨夕薄野に行って女郎というものと始めて寝てみたと逆襲してやるだけのことだ。それを信ずる奴があったら「へえ柿江がかい」と愛嬌にしないとも限らないし、しかしたいていの奴は「ガンベのちゃらっぽこもいい加減にしろ」と笑ってしまうに違いない。こう柿江は腹をきめて何喰わぬ顔で教室に出てみた。ガンベも教室に来ていた。が彼は昨夜のことなどはまったく忘れてしまったようなけろり[#「けろり」に傍点]とした顔をしていた。柿江はガンベを野放図《のほうず》もない男だと思って、妙なところに敬意のようなものを感じさえした。そしてその日はできるだけさしひかえて神妙にしていた。いつガンベに小賢《こざ》かしいという感じを与えて、油を搾《しぼ》られないとも限らない不安がつき纏《まと》って離れなかったから。
「俺はその時、こんな経験は一度だけすればそれでいいと決めていたんだ。まったくそれに違いないのだ。これ以上のことをしたら俺はたしかに堕落《だらく》をし始めたのだといわなければならない」
淋しい道路に折れ曲るときゅうに歩度をゆるめた柿江は、しんみりした気持になってこう自分にいい聞かせた。彼は始めて我に返ったように、いわば今まで興奮のために緊張しきっていたような筋肉をゆるめて、肩を落しながらそこらを見廻わした。夜学校を出た時真暗らだと思われていた空は実際は初冬らしくこうこうと冴えわたって、無数の星が一面に光っていた。道路の左側は林檎園《りんごえん》になっていて、おおかた葉の散りつくした林檎の木立が、高麗垣の上にうざうざ[#「うざうざ」に傍点]するほど枝先を空に向けて立ち連なっていた。思いなしか、そのずっと先の方に恵庭《えにわ》の奇峰が夜目にもかすかに見やられるようだ。柿江にはその景色は親しましいものだった。彼がひとりで散策をする時、それはどこにでもいて彼を待ち設けている山だった。習慣として彼は家にいるより戸外にいる方が多かった。そして一人でいる方が多かった。そういう時にだけ柿江は朋輩たちの軽い軽侮《けいぶ》から自由になって、自分で自分の評価をすることができるのだった。慣れすぎて、今は格別の感激の種にはならなかったけれども、それだけ札幌の自然は彼の心をよく知り抜いてくれていた。
「そうだ、もう帰ろう」
柿江はかなり強い決心をもって、西の方を向いてゆるゆると歩みを続けた。そして道路の右側にはなるべく眼をやるまいとした。
しかしそれはできない相談だった。窓という窓には眼隠しの板が張ってあって、何軒となく立ちならんでいる妓楼《ぎろう》は、ただ真黒なものの高低《たかひく》の連なりにすぎないけれども、そのどの家からも、女のはしゃぎきった、すさんだ声が手に取るように聞こえていた。本通りの大まがきの方からは、拍子をはずませて打ちだす太鼓の音が、変に肉感と冒険心とをそそりたてて響いてきた。ただ一度の遊興は柿江の心をよけい空想的にして、わずかな光も漏らさない窓のかなたに催されている淫蕩《いんとう》な光景が、必要以上にみだらな色彩をもって思いやられた。彼よりも先に床にあって、彼の方に手をさし延べて彼を誘った女、童貞であるとの彼の正直な告白を聞くと、異常な興味を現わして彼を迎えた女、少しの美しさも持ってはいないが、女であるだけに、柿江がかつて触れてみなかった、皮膚の柔らかさと、滑らかさと、温かさと、匂いとをもって彼を有頂天にした女、……柿江はたんなる肉慾のいかに力強いかを感じはじめねばならなかった。彼は自分が恐ろしくなった。自分がこんなものだとはゆめにも思わなかったのだから。これはいけないとみずからをたしなめながら、すがりつくように左の方の淋しい林檎園を見入ったけれども、それは何んの力にもならなかった。自分の家のことを大急ぎで思いだしてみた。何んの感じもない。白官舎のものたちの思わくを考えてみた。何んの利き目もない。夜学校の教師たる自分の立場を省みてみた。ところが驚くべきことには、そこにいる女の生徒の顔や、襟足や、手足が、今までにもある感じを与えられていないことはなかったが、すぐ無視することのできたそれらのものが……柿江は本当に恐ろしくなってきた。……全身は悪寒《おかん》ではなく、病的な熱感で震えはじめていた。頭の中には血綿らしいものがいっぱいにつまって、鼻の奥まで塞がっていた。頭の重さというものが感ぜられるほど何かでいっぱいになっていた。そして柿江が何かを反省しようとすると、弾ね返すように断定的な答えを投げつけてよこした。たとえば、世の中にはずっと清潔な心と自制心とを持った男がと考える暇もなく、それは嘘だ、皆んな貴様と同様なのだ、たぶん貴様以上なのだ。法螺吹《ほらふ》きのくせに正直者の貴様には今までそれが見えなかっただけだ、と彼の頭は断定的に答えるのだ。彼はそしてその答えに一言もないような気がした。
それなら行こう、と柿江が実際自分の体を遊廓の方にふり向けようとすると、まあ待ってくれと引きとめるものがどこかにいた。女に引きとめられたらそんな感じがするのだろうか、その力は弱いけれども、何かしら没義道《もぎどう》にふりきることができなかった。今度が二度目だ。二度行ったら三度行くだろう。三度行ったら四度、五度、六度と度重なるだろう。どこからそんなことをする金が出てくるか。そのうちにすべての経緯《いきさつ》が人に知れわたったらいったいどうする。
柿江はきゅうに頭から寒くなった。何んといってもそれは重大な問題だ。柿江は自分がどういう骨組で成り立っているかを知りぬいているのだから。彼奴は妙に並外れた空想家で、おまけに常識はずれの振舞いをする男だが、あれできまりどころは案外きまっていて、根が正直で生れながらの道徳家だ、そういう印象を誰にでも与えている。彼はそれを意識していた。そしてそれに倚《よ》りかかって自分というものの存在を守っていた。万一、人々が彼に対して持っているこの印象を我から進んで崩したら、彼は立つ瀬がなくなるのだ。
柿江はいつの間にか遊廓に沿うてその西の端れまで歩いてきてしまっていた。そこには新川という溝のような細い川がせせらぎを作って流れている、その川音が上《うわ》ずった耳にも響いてきた。柿江はその川を越して遊廓から離れるべきだったのに、離れる代りに、また東の方に向いて元と来た道を歩きはじめた。柿江の心がどっちに傾いてもその足は目指すところを離れようとはしなかった。のみならず、彼は吸い寄せられるように、遊廓に沿うて流れている溝川の方へとだんだん寄っていって、右手の爪を血の出るほど深くぶつりぶつりと噛みながら少し歩いては立ち停り、また少し歩いては立ち停った。そしてとうとう一本だけ渡してある小さな板橋の所に来て動かなくなってしまった。
柿江は自分をそこに見出すと、また窃《ぬす》むようにきょときょと[#「きょときょと」に傍点]とあたりを見廻した。人通りはまったく途絶えていた。そこいらには煙草の吸殻や、菓子の包んであったらしい折木《へぎ》や、まるめた紙屑や、欠けた瀬戸物類が一面に散らばっていた。柿江はその一つずつに物語を読んだ。すべてがすでに乱れきった彼の心をさらにときめかすような物語だった。
突然柿江は橋の奥の路地をこちらに近寄ってくる人影らしいものに気がついた。はっ[#「はっ」に傍点]と思った拍子に彼は、たった今大急ぎでそこに来かかったのだというような早足で、驀地《まっしぐら》に板橋を渡りはじめていた。そして危くむこうからも急ぎ足で来る人――使い走りをするらしい穢《きた》ない身なりの女だったが――に衝きあたろうとして、その側を夢中ですりぬけながら、ガンベといっしょに来た時のように制帽を懐ろにたくしこんだ。廓内の往来に出ると、暖かい黄色い灯の光に柿江は眩《まぶ》しく取り巻かれていた。彼は慌てて袖の中を探った。財布はたしかに左の袖の底にあった。今夜はよその家にはいるのが得策だと心であせったが、どういうものかそれができないで、まずいことだとは知りながら、彼はひとりでにガンベに誘いこまれた敷波楼の暖簾《のれん》を飛びこむようにして潜った。
「日本服を改良しましょう、すぐしましょう」と書いた旗が、どういうきっかけだったか、その瞬間に柿江の眼にまざまざと映って、それが見る間に煙のようにたなびいて消えていった。
* * *
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「星野清逸兄。
「俺はやっぱり東京はおもしろい所だと思うよ。室蘭《むろらん》か、函館《はこだて》まで来る間に、俺は綺麗さっぱり北海道と今までの生活とに別れたいと思って、北海道の土のこびりついている下駄を、海の中に葬ってくれた。葬っても別に惜しいと思うほどの下駄ではむろんないがね。あれは柿江と共通にはいていたんだが、柿江の奴今ごろは困っているだろう。青森では夜学校の生徒の奴らが餞別《せんべつ》にくれた新しい下駄をおろして、久しぶりで内地の土を歩いた。けれどもだ、北海道に行ってから足かけ六年内地は見なかったんだが、ちっとも変ってはいない。貴様にはまだ内地は Virgin《ヴァージン》 soil《ソイル》 なんだな。
「郷里にもちょっと寄ったがね、おやじもおふくろも、額の皺が五六本ふえて少ししなびたくらいの変化だった。相変らずぼそぼそと生きるにいいだけのことをして、内輪に内輪にと暮している。何をいって聞かせたってろくろく分りはしないのだから、俺は札幌の方を優等で卒業したから、これから東京に出て、もっとえらい大学で研《みが》きをかけるんだといい聞せておいた。何しろ英語を三つ四つ話の中にまぜれば、何をいっても偉いことのように聞こえるんだから、じつに簡単で気持がいいよ。たとえばこういう具合だ。
『おとうさまは知るまいが東京には University《ユニヴァーシティ》 という大学があって、象山先生の学問に輪をかけたような偉い学問ができる。そこに行くと俺でも Student《ステューデント》 という名前を貰って、Sociology《ソシオロジイ》 and《アンド》 English《イングリッシュ》 grammar《グラマー》 and《アンド》 Chinese《チャイニイズ》 literature《リタラチャー》 というようなむずかしいものを習うだ。どうだね、もう二三年がところ留守にしてもいいずら』
『げえもねえことを……象山先生より偉くなったらどうする気だ』
俺の方では佐久間象山より偉い人間は出てこようがないとしてあるんだ。けれどもだ、おやじは俺が大の自慢で、長男は俺
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