見分けのつきそうにもない小柄な少年の戸沢だった。柿江は安心して大胆になった。
「いいや、本当も本当、先生が自分で遇ってきた出来事なんだ」
 この会話で教室内の空気がちょっと鎮《しず》まった。生徒たちは隙でも窺《うかが》うように柿江の顔つきに注意した。
「だって俺今夜こけへ来る時、その人に往来で遇ったもの」
 柿江はしまった……と思ったが、思った瞬間に努力したのはそれを顔色に現さないことだった。そして咄嗟《とっさ》に、習慣的になっている彼の不思議な機智は彼をこの急場からも救いだした。
「戸沢は夢でも見たんだろう。……あ、解った。戸沢はその男の似而非者《にせもの》に遇ったんだな。その男のことが先生の生れた釧路の方で評判になると、似而非者が五六人できて、北海道をあちこちと歩き廻るようになったんだ。……それに違いない。それにお前は遇ったんだ」
 その少年はまだ疑わしそうな顔をしながら黙ってしまった。そしてそこにはもう、その問題をなお追究しようというような生徒はなかった。一同は立ったりいたりして帰り支度にせわしかったから。
 柿江はとにかく戸沢が疑わしげながら納得《なっとく》するのを見ると、自分
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