するようにと、
「そんなわけで僕は研究室にさえいればいい人間ですし、そうしていなければいけない人間です。ですから星野君はこの手紙のようなことを言っていますが、僕は辞退したいと思います。どうか悪《あ》しからず」
 とできるだけ言葉少なに思いきっていってしまった。
 伏目になったおぬいさんの前髪のあたりが小刻みに震《ふる》えるのを見たけれども、そして気の毒さのあまり何か言い足そうとも思ってみたけれども、園の心の中にはある力が働いていてどうしてもそうさせなかった。
 園は静かに茶を啜《すす》り終った。星野の手紙をおぬいさんの方に押しやった。古ぼけた黒い毛繻子《けじゅす》の風呂敷に包んだ書物を取り上げた。もう何んにもすることはなかった。座を立った。
 暗い夜道を急ぎ足で歩きながら園は地面を見つめてしきりに右手を力強く振りおろした。
 きゅうに遠くの方で急雨のような音がした。それがみるみる高い音をたてて近づいてきた。と思う間もなく園の周囲には霰《あられ》が篠《しの》つくように降りそそいだ。それがまた見る間に遠ざかっていって、かすかな音ばかりになった。
 第二陣、第三陣が間をおいて襲ってきた。
 
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