冴えと聞こえてきた。
おぬいさんの家の界隈《かいわい》は貧民区といわれる所だった。それゆえ夕方は昼間にひきかえて騒々しいまでに賑《にぎ》やかだった。音と声とが鋭角をなしてとげとげしく空気を劈《つんざ》いて響き交わした。その騒音をくぐりぬけて鐘の音が五つ冴え冴えと園の耳もとに伝わってきた。
それは胸の底に沁《し》み透るような響きを持っていた。鐘の音を聞くと、その時まで考えていたことが、その時までしていたことが、捨ておけない必要から生まれたものだとは園には思われなくなってきた。来なければならぬところに来ているのではない。会わなければならぬ人に会っているのではない。言わなければならぬことを言っているのではない。上ついた調子になっていたのだ。それはやがて後悔をもって報《むく》いられねばならぬ態度だったのではないか。園は一人の勤勉な科学者であればそれで足りるのに、兄のように畏敬《いけい》する星野からの依頼だとはいえ、格別の因縁《いんねん》もない一人の少女に英語を教えるということ。ある勇みをもって……ある喜びをすらもって……柄《がら》にもない啓蒙的《けいもうてき》な仕事に時間を潰そうとしている
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