するばかりだった、彼は急いだ、大通りを南へと。
 三隅の家の軒先で、園はもう一度|衣嚢《かくし》の手紙に手をやった。釦《ボタン》をきちんとかけた。そして拭掃除の行き届いた硝子《ガラス》張りの格子戸を開けて、黙ったまま三和土《たたき》の上に立った。
 待ち設《もう》けたよりももっと早く――園は少し恥らいながら三和土の片隅に脱ぎ捨ててある紅緒《べにお》の草履《ぞうり》から素早く眼を転ぜねばならなかった――しめやかながらいそいそ近づく足どりが入口の障子を隔てた畳の上に聞こえて、やがて障子が開いた。おぬいさんがつき膝をして、少し上眼をつかって、にこやかに客を見上げた。つつましく左手を畳についた。その手の指先がしなやかに反って珊瑚《さんご》色に充血していた。
 意外なというごくごくささやかな眼だけの表情、かならずそうであるべきはずのその人ではなかったという表情、それが現われたと思うとすぐ消えた。園はとにもかくにもおぬいさんに微かながらも失望を感じさせたなと思った。それはまた当然なことでなければならない。園を星野以上に喜んで迎えるわけがおぬいさんにはあるはずがない。おまけにその日は星野が英語を教え
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