それをつむりに潜《くぐ》らせようとしたが、華《はな》やかなその色が、夕暗の中で痛いように眼に映った。おぬいは一度のばしたその襷を、ぐちゃぐちゃに丸めて、それを柱にあてがって顔を伏せると、誰のためにとも、誰にともなく祈りたい気持でいっぱいになった。
 おぬいはそうしたまま、灯もともさない台所の隅で、しばらくの間|慄《ふる》えるような胸をじっと抑えて、何んとなくそこにつき上げてくるえたいの知れない不安を逐い退けようとして佇《たたず》んでいた。
     *    *    *
 創成川を渡る時、一つ下《しも》の橋を自分と反対の方向に渡ってゆく婦人は、降りはじめた雪のためにいくらかぼんやりしていたけれども、三隅のおばさんに違いないと渡瀬は見て取った。今日こそはおぬいさん一人だぞという意識がすぐいたずららしい微笑となって彼の頬を擽《くすぐ》った。
 行ってみるとおぬいさん一人らしかった。脱ぎ取った帽子の雪をその人が丁寧《ていねい》に払ってくれた。いつものとおり茶の間はストーヴでいい加減に暖まっていた。そして女世帯らしい細やかさと香《にお》いとが、家じゅうに満ちていて、どこからどこまで乱雑で薄汚
前へ 次へ
全255ページ中183ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング