は良人の病が不治だということを知ると、毎晩家事が片づいてから農学校の学生に来てもらって、作文、習字、生理学、英語というようなものを勉強し始めた。そして三月の後には区立病院の産婆養成所の入学試験に及第した。その名前が新聞に載《の》せられた時、それを父に気づかれまいとして母が苦心したのを、おぬいは昨日のことのように思いだすことができる。
その父はいい父だった。少なくともおぬいにとっては汲みつくせない慈愛を恵んでくれた親だった。
「あれはどこからどこまであまり美しいから早死をしなければいいが」
そう父が母に言っているのを偸《ぬす》み聞きしたこともあった。そして病気がちなおぬいが加減でも悪くすると、自分の床の側におぬいの床を敷かせて、自分の病気は忘れたように検温から薬の世話まで他人手《ひとで》にはかけなかった。
それよりも何よりも、おぬいが父を思いだす時思いださずにはいられないのは、父が死ぬちょうど一週間前、突然おぬいに、部屋の中を一まわり歩いてみたいから肩を貸してくれといいだした時のことだった。おぬいももとより驚いたが、母はそれを思いもよらぬことだとさえいってとめて聴かなかった。父は母とおぬいとを静かに見やりながらいった。
「お前がたは分らないかもしれないが、男には、一生に一度、自分の力がどれほどあるものだか、それを出しきらなければ死ねないような気持が起るものだ。わしは今までお前がたに牽《ひ》かれてそれをようしなかった。……もうしかしわしは死ぬものとほぼ相場がきまった。今日はひとつわしの心にどれほど力があるかやってみるのだ。腰から下に通う神経は腐って死んでいると医者もいうが、わしはお前がたに奇蹟を見せてやろう。案じることはない」
父は歩いた。おぬいも自分の肩に思ったより軽い父の重みを感じながら歩いた。歩きながら父はいった。
「おぬい、お前はもう十四になるなあ。強い肩になった。立派にお父さんの力になってくれる。……お前もやがて人の妻になるのだが、なったら、今日の心持を忘れないで良人といっしょに歩くんだぞ。忘れちゃあいけないよ」
父の手がおぬいの肩でかすかに震えはじめた。
父が首尾よく部屋を一周して病床に腰を卸《おろ》すと親子三人はひとりでに手を取り合っていた。そして泣いていた。
「お前がたは何をそう泣くのだ。わしは喜んで涙を流しているのに。……今日のような嬉しい日はない。……だがこんなことは医者にさえいう必要はないことだよ。こんな嬉しいことはめいめいの心の中に大事にしまっておくべきことだからな」
苦しい呼吸の間から父はようやくこれだけのことをいって横になった。
この出来事については母もおぬいも父の言葉どおり誰にもいわないでいる。いわないでいるうちにおぬいにとっては、それがとても口には出せないほど尊いものになっていた。
おぬいは老境に来たのを思わせるような母の後姿を見つめながら、これを思いだすと、涙がまたもや眼頭から熱く流れだしてきた。啜泣《すすりな》きになろうとするのをじっと堪えた。……不断は柔和で打ち沈んだ父だったけれども何んという男らしい人だったろう。あの強い烈しい底力、それはもうこの家には、どの隅にも塵ほども残っていない。……淋しい、父が欲しい。父がもう一度欲しい。父のあの骨ばった手をもう一度自分の肩に感じてみたい。
力の不足、自分一人ではどうしようもない力の不足――倚《よ》りすがることのできるものに何もかも打ち任《ま》かして倚《よ》りすがりたい憧《あこが》れ、――そしてどこにもそんなもののない喰い入るような物足らなさ。……気を鎮《しず》めて眠ろうとすればするほど、悲しみはあとからあとからと湧き返って、涙のために痛みながらも眠が冴《さ》えるばかりだった。
おぬいはとうとうそっと起き上った。そして箪笥《たんす》の上に飾ってある父の写真を取って床に帰った。父がまだ達者だったころのもので、細面の清々《すがすが》しい顔がやや横向きになって遠い所をじっと見詰めていた。おぬいはそれを幾度も幾度も自分の頬に押しあてた。冷たいガラスの面が快い感触をほてった皮膚に伝えた。おぬいはその感触に甘やかされて、今度は写真を両手で胸のところに抱きしめた。
涙がまた新たに流れはじめた。
二度と悪夢に襲われないために、このままで夜の明けるのを待とうとおぬいは決心した。
夜は深いのだろう。母の寝息は少しも乱れずに静かに聞こえつづけていた。おぬいはようこそ母を起さなかったと思った。
* * *
夜学校を教えるために、夜食をすますとすぐ白官舎を出た柿江は、創成川っぷちで奇妙な物売に出遇《であ》った。
その町筋は車力や出面《でめん》(労働者の地方名)や雑穀商などが、ことに夕刻は忙がしく行き来している所なのだが、その
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