が何んの足しになるかさ。東京に行ってひとつ俺は暴《あば》れ放題に暴れるだ。何をやったっても人間一生だ。手ごたえのある処にいって暴れてみないじゃ腹の虫が承知しないからな。けれどもだ。ペンタゴンなんか相手にしていたんじゃなあ……柿江なんぞも、田舎新聞にひとりよがりな投書ぐらい載せてもらって得意になっていないで、ちっと眼を高所大所に向けてみろ。……何んといってもそこに行くと星野は話せるよ」
ガンベは実際どこかに堅実なところがあって、それが言葉になるとうっかり矢面には立てなかった。今の言葉にも西山はちょっとたじろいたので、いっそう心の奥のありさまそのままを誰を相手ともなくいい放った。それはかえって彼の心をすがすがしくした。そして演壇に立って以来鎮まらずにいる熱い血液が、またもや音を立てて皮膚の下を力強く流れるのを感じた。
西山は奇行の多い一人の暴れ者として教師からも同窓からも取り扱われ、勉強はするが、さして独創的なところのない青年として見られているのを知っていた。彼は何んとなくその中に軽侮《けいぶ》を投げられているような気がして、その裏書を否定するような言動をことさらに試みていたのだが、今日の演説と今の言葉とで、それをはっきり言い現わしたのを感じた時、心臓へのある力の注入を自覚せずにはいられなかった。生涯の進路の出発点が始めて定まったと思えた。彼の周囲が彼を見なおしたのは、彼が彼の周囲を見なおす結果になっていた。たとえばおたけだ。おたけが星野に対して特別な好意を示すのを見極めたある夜に、彼は一晩じゅう寝なかったことがあった。愚かな屈辱《くつじょく》……ところが今日は人見がおたけを意識しながら彼の演説の真似をしたりするのを見ると、ある忌《いま》わしい羨望《せんぼう》の代りに唾棄《だき》すべき奴だと思わずにはいられなくなっていた。女性――彼を待っている女性は一人よりいない。そしてその一人はおたけなどとどの点においても比較になるような人ではなかった。それがゆえに彼の未来を切り開いて、自分の立場に一日でも早く立ち上がろうとする焦躁《しょうそう》は激しくなった。万事につけて彼の気持はそんな風に動いていった。
突然柿江が能弁《のうべん》になった。彼が能弁になるのは一種の発作《ほっさ》で、無害な犬が突然恐水病にかかるようなものだ。じくじくと考えている彼の眼がきゅうに輝きだして、湯気《ゆげ》を立てんばかりな平べったい脂手が、空を切って眼もとまらぬ手真似の早業《はやわざ》を演ずる。そういう時仲間のものは黙ってそれが自然に収まるのを待っているよりほかはない。彼は貧乏ゆすりをしながら園から受取った星野の葉書を手脂だらけにして丸めたり延ばしたりしていた。それを棒のように振り廻わし始めた。
高所大所《こうしょたいしょ》とはいったい何を意味するつもりだというところから柿江は始めた。高所は札幌の片隅にもある、大所は女郎屋《じょろや》の廻し部屋にもあると叫んだ。よく聞けよく聞けといって彼はだんだん西山の方に乗りだしていった。西山は自分の机に腰をかけたまま受太刀になってあっけに取られてそれを眺めていなければならなかった。
「教授の手にある講義のノートに手垢《てあか》が溜《た》まるというのは名誉なことじゃない。クラーク、クラークとこの学校の創立者の名を咒文《じゅもん》のように称《とな》えるのが名誉なことじゃない。当世の学問なるものが畢竟《ひっきょう》何に役立つかを考えてみないのは名誉なことじゃない。現代の社会生活の中心問題が那辺《なへん》にあるかを知らないのは名誉なことじゃない。それを知って他を語るのはさらに名誉なことじゃない。日清戦争以来日本は世界の檜舞台に乗りだした。この機運に際して老人が我々青年を指導することができなければ、青年が老人を指導しなければならない。これでありえねばあれだ。停滞していることは断じてできない。……言葉は俺の方が上手《じょうず》だが、貴様もそんなことを言ったな。けれども貴様、それは漫罵《まんば》だ。貴様はいったい何を提唱した。つまりくだらないから俺はこんな沈滞した小っぽけな田舎にはいないと言うただけじゃないか。なるほど貴様は社会主義労働運動の急を大声疾呼《たいせいしっこ》したさ。けれども、貴様の大声疾呼の後ろはからっぽだったじゃないか。そうだとも。よく聞け。ガンベの眼玉みたいなもんだ。神経の連絡が……大脳と眼球との神経の連絡が(ガンベが『貴様は』といって力自慢の拳を振り上げた。柿江は本当に恐ろしがって招き猫のような恰好をした)乱暴はよせよ。……貴様の議論には、その議論を統一する哲学的背景がまったく欠けてるんだ。軽薄な……」
「何が軽薄だ。軽薄とは貴様のように自分にも訳の判《わか》らない高尚ぶったことをいいながら実行力の伴《ともな》わな
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