も、自分の家から死者の出たのは、園が生まれてから始めてのことなので、よけいそうした感じが起らないのかもしれなかった。母の顔も平生のとおりの母の顔、兄の顔も今年の夏別れる時に見たままの兄の顔。玄関からなだら上りになった所に、重い瓦を乗せてゆがみかかった寺門がある。その寺門の左に、やや黄になった葉をつけたまま、高々とそそり立つ名物の「香い桜」。朝の光の中で園がそれを見返った時、荒くれて黝《くろ》ずんだその幹に千社札が一枚斜に貼りつけられてあって、その上を一匹の毛虫が匐《は》っていた。そんなことまでが、夏見たままの姿で園の眼の前に髣髴《ほうふつ》と現われでた。
 しかもこれらのあまりといえば変化のなさすぎるような心の印象《イメージ》の後には、何か忌々《いまいま》しい動揺が起ろうとしているように思えた。実際をいうと、園は帰京せずに、札幌で静かに父の死を弔《とむ》らいもし、一家の善後ということも考えてみたかったのだが「スグカエレ」という電文に背《そむ》くべき何らの理由もなかった。
 園は星野の手紙の下から父の手紙を取りだしてみた。封を切ろうとしたが何んのゆえともなくそれができなかった。どうもその中からは不意な事件が飛びだしてきて、準備のない園の心に、簡単に片づけることのできない混乱を与えそうでしかたがなかった。園はまた父の手紙を見つめたまま、右手の指で机の木端《こば》を敲《たた》きながら長く考えつづけた。
「とにかく今夜すぐ帰ろう」
 ふっとそういう考えが断定的にその心に起った。それだけのことを決心するのに何んでこれほど長く考えねばならなかったかというようなそれは簡単な決心だった。
 しかしそう決心すると同時に、園は心臓がきゅうに激しく打ちだして、顔が火照《ほて》るまでに慌ただしい心持になっていた。彼はそれをいまいましく思いながらもすぐ立ち上って部屋の中を片づけはじめた。しかしそこには別に片づけるというようなものもなかった。ズック製の旅鞄に、二枚の着換えを入れて、四冊の書物と日記帳とを加えて、手拭の類を収めると、そのほかにすることといっては、鍵のかかるところに鍵をかって、本箱の上に自分のと別にしてならべてある借用の書物を人見か柿江に頼んで返却してもらえばそれでいいのだった。彼は心の中にわくわくするようないやな気分を持ちながらも、割合に落ち着いた挙止でそれだけの仕事をすませた。そして机の上にあった三通の手紙を洋服の内衣嚢《うちかくし》に大事にしまいこんだ。机の上にはラムプとインキ壷と硯箱とのほかに何んにもなかった。そこで園はもう一度思い落しはないかと考えてみた。欠席届があった。彼はふたたび机の引出の錠を開けて、半紙を取りだしてそれを書いた。そしてそのついでに星野にあてて一枚の葉書を書いた。
「兄の手紙今夕落手。同時に父死去の電報を受取ったので今夜発ちます。御返事はあとから」
 しかし園はそう書いてくると、もう一つ書き添うべき大事なことのあるのに気づいた。それはおぬいさんのことだった。しかしそれは葉書には書きうることではなかった。すべてのことを知らせるのはあとからにしよう、そう思いながら園は星野への葉書を破って屑籠に抛《ほう》りこんだ。
 隣の部屋では人見たちが盛んに笑いながら大きな声で議論めいた話をしている。それに引きかえて、ずっと見廻わしてみた園の部屋は森閑《しんかん》として、片づきすぎるほど隅まで片づいていた。それを見ると園は父の死んだという事実をちらっと実感した。何んの意味もなく胸の迫るのを覚えた。しかしそれはすぐ通り過ぎてしまった。
 隣の部屋をノックして急な帰京を知らせると、そこにい合わせた三人は等しく立ち上って、少し頓狂《とんきょう》なほど興奮して園を玄関まで送ってきた。婆やは、食事がもうできるから食べていったらいいだろうと勧めながら、慌《あわ》てて下駄を引っかけて門の外まで送ってでた。そして袖口を顔に押しあてながら、遠くなるまで見送っていた。
 園は鞄一つをぶら下げて、もう十分に踏み固まっている雪道を足早に東に向いて歩いた。肘《ひじ》を押しまげて頭の上から強く打ち下そうとする衝動が、鞄を不必要に前後に揺り動かさした。彼は今夜という今夜、すべてのことをおぬいさんとその母とに申しでようという決心をやすやすとしてしまっていたのだ。それは東京に帰ろうと決めたと同時に、特別な考慮を廻らさないでも自然にでき上った決心だった。園はもとよりおぬいさんが彼をどう考えているかも知らなかった。その母がどう考えるかも考えてはみなかった。園はただおぬいさんを愛していることをこの十日ほどの間にはっきりと発見したのだ。彼は幾度かできるだけ冷静になって自分の気持を考えてもみ、容赦なく解剖してもみた。しかしそこに何らか軽薄な気持が動いていることを認めることが
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