見廻わした。そして真剣な準備を仮想的に目論見《もくろみ》ながら、
「今日はお母さんはお留守ですか」
と尋ねてみた。この言葉はおぬいさんを(もし彼女があたり前の事を知った女なら)怖れさすに十分だと同時に、反抗か屈服かの覚悟を強いるに十分な言葉なはずだ。
ところがおぬいさんはその言葉にすら怖れる様子は見せなかった。そして自分の教師を頼みきっているように、
「診察に出かけました……よろしく申していました」
と他意なく母の留守を披露《ひろう》した。赤子の手をねじり上げることができようか。渡瀬はまた腰を折られてしょうことなしに机の上にある読本を取り上げて、いじくりまわした。
けれども渡瀬はどうしてもそのまま引き下る気にはなれなかった。彼は無恥《むち》らしい眼を挙げておぬいさんを見上げ見おろした。その時、ふと考えついたのは、おぬいさんがすでに意中の人を持っているなということだった。恋に酔っている女性ほど、他の男に対して無慾に見えるものはない。おぬいさんの無邪気らしさに欺《あざむ》かれかけたのはあまりばからしいことだった。十九の女に恋がない……彼は何を考えていたのだろうと思った。
彼はおぬいさんを見やりながら、
「おぬいさん」
と呼んだ。彼はばかばかしい嫉妬《しっと》の情の中にも、自分の声に酔いしれたようになった。おぬいさんに向ってその名を呼びかけたのはこれが始めてなのだ。
「あなたは今の話で涙が出るといいましたが、……あなたにもそんな経験があったんですか」
今度はとっちめてみせるぞ。
即座に、
「いいえ」
と答えた彼女の答えは、少しの隠しだてもなく、きっぱりとしたものだった。渡瀬は明かにそれを感じないではいられなかった。何んという、簡単な敗北を見なければならないだろう。あまりに簡単だ。しかしあまりに明快だ。何もかも素直に投げだして、背水《はいすい》の陣《じん》を布《し》いたらしく見える彼女を思うと、渡瀬はふと奇怪な涙ぐましさをさえ感じた。渡瀬はもとよりおぬいさんを憎んでいるのではない。けれども一日おきに向い合っているうちに、二人の距離と、彼自身の中に否応なしに育っていく無体な欲念との間に、ほとんど憎しみともいえそうな根深い執着を感じはじめていた。ある残虐《ざんぎゃく》な心さえ萌《きざ》していた。けれどもおぬいさんと面と向って、その清々《すがすが》しい心の動きと、白露《はくろ》のような姿とに接すると、それを微塵《みじん》に打ち壊そうとあせる自分の焦躁が恐ろしくさえあった。すべてが終ったあとにおぬいさんが受けるであろうその悩みと苦しみとを考えてみただけでも、心が寒くなった。不思議な女もあったものだと思うほかはなかった。不思議な自分の心だと思うほかはなかった。……それにつけても渡瀬はいらだった。
かまうものか、もっといじめてやれ。渡瀬は何んとなしに残虐なことをしてみたい心になっていた。そして自分で自分をけしかけるように、大ぎょうな表情を見せながら、
「それで泣くというのは変じゃありませんか」
とむりに追窮した。
「経験のないところに感動するってわけはないでしょう」
彼は自分ながら皮肉な気持の増長するのを感じた。
おぬいさんはほっ[#「ほっ」に傍点]と小さく気息《いき》をついた。そしてしばらくしてから、やや俯向いたまま震えた声で、しかしはっきりといいだした。
「これはただそう思うだけでございますけれども、恋というものは恐ろしい悲しいもののようにおもいます。私にもそんな時が来るとしたら、私は死にはしないかと今から悲しゅうございます。だもんですからああいうお話を読みますと、つい自分のことのように感じてしまうのでございましょうか」
この女は俺の説でも承《うけたまわ》ろうとするがいいんだ。そんな抽象論で引きさがるかい。
「あなたは実際、たとえば星野か園かに恋を感じたことはないのかなあ」
このくらいいっても応えないか。
と、今まで素直に素直にとしていたらしいおぬいさんの顔色がさっ[#「さっ」に傍点]と変って、死んだもののように青ざめた。俯向けた前髪が激しく震えだした。今度こそは真から腹を立てて、貞女らしい口をきくだろう、そう渡瀬が思っていると、おぬいさんは忙《いそ》がしく袂を探ろうとしたが、それも間に合わなかったか、いきなり両手を眼のところにもっていって、じっと押えた。石になったかと思われるほど彼女は身動きもしなかった。
渡瀬は不意を喰ってきょとん[#「きょとん」に傍点]とした。……はじめて彼は今まで自分が何をしていたかを知った。彼は自分がこれほど酷《むご》たらしい男だとは思わなかった。どうして残虐《ざんぎゃく》な気持があとからあとから湧きだして、彼に露骨《ろこつ》な言葉を吐かしたかが怪しまれだした。俺は悪党だ。俺は悪人だ
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