笑い崩した。おぬいさんはその時立って茶棚の前に行っていたが、肩越しにこちらを振り返って、別に驚きもしないようににこにこしながら「どうぞ」といった。
 茶なんぞ飲むよりもおぬいさんと一分でも長く向い合っていたかった。茶はいらないというと、せっかく茶器を取りだしかけていたおぬいさんは素直にそのままそれをそこにおいて、机の座に戻ってきた。ここで彼は新井田の奥さんとおぬいさんとを眼まぐるしく心の中で比較していた。とてもだめだ、比べものなんぞになるものか。二十近い年までこんなに色気というものなしに育ってきた娘がいったいあるものだろうか。新井田の奥さんの方が顔の造作は立ち勝っているかもしれないが……待てよそういちがいにはいえないぞ。第一こっちはまるで化粧なしだ。おまけにコケトリなしだ。それだのにこの娘から滴《したた》り落ちる……滴り落ちる何んだな……滴り落ちるX、そのXの量ときたらどうだ。それがしかも今のところまるっきりむだになって滴り落ちているんだ。おぬいさんはそれを惜しいものとも思ってはいないのだ。そこにいくと新井田の奥さんの方はさもしさの限りだ。一滴落すにもこれ見よがしだ。あれで色気が出なかったら出る色気はない。中央寺の坊主のいい草ではないが珍重珍重だ。おぬいさんがあのXの全量を誰かに滴らす段になってみろ……。渡瀬は思わず身ぶるいを感じた。
 まず作戦はあと廻わしにして、
「さてと、今日はどこから……」
 といいながらおぬいさんを見ると、書物に見入っているとばかり思っていたその人は、潤《うるお》いの細やかなその眼をぱっちりと開けて、探るように彼を見ているのだった。渡瀬はこの不意撃ちにちょっとどぎまぎしたが、すぐ立ちなおっていかなる機会をも掴《つか》もうとした。
「おやあなた僕の顔を見ていますね。ははは。僕の顔は出来損いですよ。それとも何かついていますか」
 そういって彼は剽軽《ひょうきん》らしくわざと顔をつきだしてみせた。この場合あたりまえの娘ならば、真紅な顔になってはにかんでしまうか、おたけさん級の娘なら、低能じみた高笑いをして、男に隙を見せるか、悧巧《りこう》を鼻にかけた娘なら、己惚《うぬぼ》れはよしてくださいといわんばかりにつん[#「つん」に傍点]とするに極っているのだった。渡瀬はそのどれをも取りひしぐ自信を持っていた。ところがおぬいさんは顔をあからめもせず、すましもせず、高笑いもせずに、不断のとおりの心置きない表情に少しほほ笑みながら「いいえ」とだけいって、俯向《うつむ》き加減になった。
 似而非物《にせもの》では断じてない。俺がいったんでは不似合だが、まず神々《こうごう》しい innocence《イノセンス》 だ。そういうことを許してもいい。十九……十九……まったくこれが十九という娘の仕業《しわざ》だろうか。渡瀬は少し憚《はばか》りながらも、まじまじとおぬいさんを眺めなおさずにはいられなくなった。骨節の延び延びとした、やや痩せぎすのしなやかさは十六七の娘という方が適当かもしれないが、争《あらそ》われないのは胸のあたりの暖かい肉づき、小鼻と生えぎわの滑かな脂肪《しぼう》だった。そしてその顔にはちょっと見よりも堅実《けんじつ》な思慮分別の色が明かに読まれた。それにしてもあまり自然に見える、子供のように神々しい無邪気。渡瀬は承知しながらもおぬいさんの齢を聞いてみたくなった。そして突然、
「失礼、あなたはいくつになりますね」
 と尋ねてみた。さすがにおぬいさんは少し顔を赤らめたが、少しも隠し隔《へだ》てなく、渡瀬を信頼しきっているように、
「もう十九になりますの」
 とおとなしやかに答えた。Xはつねに滴り落ちている。しかしながら渡瀬は容易にそこに近寄れないのを知らねばならなかった。そして感歎のあまり、
「ふーむ、珍らしいな、奇体だなあ」
 と口に出してしまった。実際考えてみると、渡瀬が今まで交渉を持ったのは、多少の程度こそあれ男というものを知った娘ばかりだった。本当に男を知らない女性が、こんなに不思議なものを秘していようとはまったく思いもかけなかった。渡瀬にはその宝に触れてみる資格が取り上げられているようにさえみえた。彼は少しあっけに取られた。
「それでは始めていただきます」
 そうおぬいさんが凛々《りり》しく響くような声でいって、書物をぼんやりしかけた渡瀬の前にひろげたので渡瀬はようやく我に返った。おぬいさんの復習したのは、アーヴィングの「スケッチ・ブック」の中にある、ある甘ったるい失恋の場面を取りあつかったもので、渡瀬がこの前読んで聞かせた時には、くだらない夢のようなことを、男のくせによくこうのめのめ書いたものだと思ったのだが、今日おぬいさんがそれを復習しているのを聞いてみると、あながち夢のようなことには思えなかった。誰にもっ
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