た灰を掃除しながら時計を見るともう三時になっていた。部屋の中は綺麗に片づいていて、客を迎えるのに少しの手落ちもなかった。自分の身なりをも調べてみて、ふたたび机の前に坐ろうとした時、ふと母のいい残した言葉が気になった。渡瀬さんの来る時には今までいつでもおりよく母がいたのに今日は留守になるので、それであれだけのことをいいおいたのかと思えた。そう思ってみると、その言葉の一つ一つにはかりそめに聞き流してはいられないものがあるようだった。そういえば渡瀬さんという人は、星野さんや園さん、そのほか農学校にいる書生さんたちとは少し違ったところがある。あの人の前に出るとはじめから自由な気持で何んでもいえそうだけれども。そして困ったことでもあった時、相談をしかけたら、すぐてきぱき始末をつけてくれそうだけれども、その先の先がどう変ってゆくのか、渡瀬さん自身でさえ無頓着《むとんちゃく》でいるようにも見える。他人のことはすぐ見ぬいてしまって、しかもけっして急所を突くようなことはしない代りに、自分のことになると自由すぎるほどのんきなようにも見える。そうかと思うと、どんな些細《ささい》なことでも自分を中心にしなければ取り合わないようなところもある。けれどもあの人は真から悪い人ではない、そして真から悪いという人が世の中には本当にあるものだろうか。……おぬいは読本に眼をやりながら、その一語をも読むことなしに、こんなことを考えた。渡瀬はがさつ[#「がさつ」に傍点]で下品でいけないと家に来られる書生さんたちはよくいうけれども……私にはついぞそうしたようなことは見当らない。……私はいったい、他の人たちとは生れつきがちがうのだろうか。少しぼんやりしすぎて生れてきたのではないだろうか。あまりに人々と自分との考え方はかけちがっている。……本当にかけちがっている。まだ何んにも知らないからなのだろう。……おぬいは非常に恥かしいところに突きあたったような気がした。そして知らず識らず体じゅうが熱くなった。
そんなことを思っていると、ふとおぬいは心の中に不思議な警戒を感じた。彼女は緋鹿《ひか》の子の帯揚《おびあげ》が胸のところにこぼれているのを見つけだすと、慌《あわ》てたように帯の間にたくしこんで、胸をかたく合せた。藤紫の半襟が、なるべく隠れるように襟元をつめた。束髪にはリボン一つかけていないのを知って、やや安心しながら、後れ毛のないようにかき上げた。そして袖口をきちんと揃えて、坐りなおすと、はじめて心が落着くのを感じた。おぬいはしんみりと読本に向いて勉強をしはじめた。
ややしばらくしてから、格子戸が力強く引き開けられた。それは渡瀬さんに違いなかった。おぬいは別に慌てることもなく、すなおな気持で立ち上って迎いに出ようとしたが、部屋の出口の柱に、母とおぬいとの襷がかけてあるのを見ると、派手な色合いの自分の襷を素早くはずして袂の中にしまいこんだ。
「いつものとおり胡坐《あぐら》をかきますよ。敲《たた》き大工の息子ですから、几帳面《きちょうめん》に長く坐っていると立てなくなりますよ」
渡瀬さんはそういって、片眼をかがやかしながら、からからと笑って膝を崩した。からからといっても、渡瀬さんの笑いには声は出なかった。
「茶なんざあ、あとでいいですよ。さあやりましょう」
おぬいは渡瀬さんのいうとおりにして、その人と向合いに坐った。渡瀬さんの気息はいつものように酒くさかった。飲んだばかりの酒の匂いではなく、常習的な酒癖のために、体臭になったかと思われるような匂いだった。おぬいはそのすえたような匂いをかぐと、軽い嘔気《はきけ》さえ催すのだった。けれども、それだからといって渡瀬さんを卑《いや》しむ気にはなれなかった。父の時代から一滴の酒も入れない家庭に育ちながら、そして母も自分も禁酒会の会員でありながら、他人の飲酒をいちがいに卑しむ心持は起らなかった。これは自分の心持に忠実な態度だろうかとおぬいはよく考えてみるのだった。禁酒会員である以上は、自分の力の及ぶかぎり飲酒を諫《いさ》めなければならないとも思った。その人が溺《おぼ》れている悪い習慣の結果を考えるなら、不愉快を忍んでも諫《いさ》めだてをするのが当然だった。けれどもおぬいには心持としてそれがどうしてもできなかった。なぜだかおぬい自身には判らないけれどもどうしてもできなかった。自分が卑怯《ひきょう》だからそうなのかと考えてもみたが、あながちそうでもない。面倒だからか。そうでもない。どういう心持なのだろう……おぬいはその解決を求めるように渡瀬さんの方を見た。酒焼けというのだろうか、きめの荒そうな皮膚が紫がかっていて、顔全体にむくみが来て、鋭い光を放ってかがやく眼だけれども、その白眼は見るも痛々しいほど充血していた。……酷《むご》たらしい、どう
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