の今まで能弁に話して聞かせていたまったくの作り話がいよいよ本当の出来事のように思えだした。
 そこの貧民小学校の教師をして農学校に通う学生の二三人が自炊している事務所を兼ねた一室に来ると、尋常四年を受持っている森村が一人だけ、こわれかかった椅子に腰をかけて、いつでも疲れているような痩せしょびれた小さな顔を上向き加減にして、股火鉢をしていた、干からびた唇を大事そうに結びながら。
 煤《すす》けたホヤのラムプがそこにも一つの簡単な鉄条《はりがね》の自在鍵にぶら下って、鈍い光を黄色く放っていた。柿江はそれを見ると、ふとまた考えてはならぬものを考えだしてしまっていた。自分だけに向って送ってよこす女の笑顔、自分と女とのほかには侵入者のない部屋、すべてを忘れさす酒、その香い、化粧の香い……そしてそれらのすべてを淫《みだ》らに包む黄色い夜の燈火。……柿江は思わずそれを考えている自分の顔つきが、森村という鏡に映ってでもいるように、素早くその顔を窃《ぬす》みみた。しかし森村の顔は木彫《きぼり》のようだった。
「おい貴様この包を帰り途《みち》に白官舎に投げこんでおいてくれないか」
 と何げない風にいいながら、柿江はぼろぼろになった自分の袴を脱いで、それに書物包みをくるみ始めた。森村は見向きもせずに前どおりな無表情な顔を眼の前の窓の鴨居《かもい》あたりに向けたままで、
「これからまたどこかに行くんか」
 とぼんやりいった。柿江は、
「うむ」
 と事もなげに答えるつもりだったが、自分ながら悒鬱《ゆううつ》だと思われるような返事になっていた。
「そこにおいとけ」
 ややしばらくして森村がこういった。
 まだ生徒たちは帰りきらないで、廊下で取組合いをするものもあるし、玄関に五六人ずつかたまって、教師といっしょに帰ろうと待ちながら、大声でわめいているものもあるし、煤掃《すすは》きのような音を立てて、教室の椅子卓《いすつくえ》を片づけているものもあった。柿江が戸外に出れば、「先生」と呼びかけて、取りすがってくる生徒が十四五人もいるのはわかりきっていた。柿江はそわそわした気分で、低い天井とすれすれにかけてある八角時計を見た。もう九時が十七分過ぎていた。しかしぐずぐずしていると、他の教師たちがその部屋にはいってくるのは知れている。それは面倒だ。柿江は已《や》むを得ず、
「それじゃ貴様頼むぞ」
 と言い
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