うざ[#「うざうざ」に傍点]するほど積まれていて、脚を踏み入れると、それが磁石《じしゃく》に吸いつく鉄屑《てつくず》のように蹠《あうら》にささりこんだようでもある。
 とにかくおぬいは死物狂いに苦しんだ。眼も見えないまでに心が乱れて、それと思わしい方に母恋しさの手を延ばしてすがり寄った。そして声を立ててひた泣きに泣いたのだった。
 夢が覚めてよかったと安堵《あんど》するその下からもっと恐ろしい本物の不吉が、これから襲ってくるのではないかとも危ぶまれた。緑色の絹笠のかかったラムプは、海の底のような憂鬱《ゆううつ》な光を部屋の隅々まで送って、どこともしれない深さに沈んでいくようなおぬいの心をいやが上にも脅《おびや》かした。
 おぬいは思わず肘《ひじ》を立てた。そしてそうすることが隠れている災難を眼の前に見せる結果になりはしないかと恐れ惑いながらも、小さな声で、
「お母さん」
 と呼んでみないではいられなかった。十二時ごろ病家から帰ってきた母の寝息は少しもそのために乱れなかった。
 もう一度呼んでみる勇気はおぬいにはなかった。自分の声におびえたように彼女はそっ[#「そっ」に傍点]と枕に頭をつけた。濡れた枕紙が氷のごとく冷えて、不吉の予覚に震えるおぬいの頬を驚かした。
 おぬいの口からはまた長い嘆息が漏れた。
 身動きするのも憚《はばか》られるような気持で、眼を大きく開いて、老境の来たのを思わせるような母の後姿を見やりながらおぬいはいろいろなことを思い耽《ふけ》った。
 何かに不安を感ずるにつけていつまでも思うのは、おぬいが十四の時に亡くなった父のことだった。細面で痩《や》せぎすな彼女の父は、いつでも青白い不精髯《ぶしょうひげ》を生やした、そしてじっと柔和な眼をすえて物を見やっている、そうした形でおぬいには思いだされるのだった。ある小さな銀行の常務取締だったが、銀行には一週に一度より出勤せずに、漢籍《かんせき》と聖書に関する書物ばかり読んでいた。煙草も吸わず、酒も飲まず、道楽といっては読書のほかには、書生に学資を貢《みつ》ぐぐらいのものだった。その関係から白官舎やそのほかの学生たちも今だに心おきなく遊びに来たりするのだった。
 父はおぬいの十二の時に脊髄結核《せきずいけっかく》にかかって、しまいには半身|不随《ふずい》になったので、床にばかりついていた。気丈《きじょう》な母
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