かしそうではなかった。汽車が動きだしたのだった。窓という窓から突きだされたたくさんな首の中に、西山さんも平気な顔をして、近眼鏡を光らせながら白い歯を出して笑っていた。それがみるみる遠ざかって見えなくなってしまった。それだけのことだった。
 三隅さんのお袋とおぬいさんとが親切に介抱してくれるので、婆やは倒れもせずに改札口を出たが、きゅうに張りつめていた気がゆるんで涙がこみあげてきそうになった。送りに来た書生さんたちはと見ると、まるでのんきな風で高笑いなどをしながら遠くから冗談口を取りかわしたりして、思い思いに散らばっていってしまった。何んの気で見送りに来たのか分らないような人たちだと婆やは思った。白官舎の人たちも、柿江さんは夜学校の生徒の手を引いて行ってしまうし、そのほかの人の姿はもうどこにも見えなかった。
 停車場前のアカシヤ街道には街燈がともっていた。おたけさんとはぐれたので婆やは三隅さん母子と連れ立って南を向いて歩いた。
「星野さんがお帰りてから何んとかお便りがありましたか」
 と大通り近くに来てからお袋が婆やに尋ねた。
「何があなた。皆んな鉄砲丸のような人たちでな」
 婆やはそう不平を訴えずにいられなかった。
「私の方にもありませんのよ」
 とおぬいさんがいった。
 大通りから婆やは一人になった。これでようやく帰りついたと思うと、書生さんたちはとうの昔に帰ってきていて、早く飯にしろとせがみたてるに違いない。これから支度をするのにそう手早くできてたまることかなと婆やは思いながらもせわしない気分になって丸っこい体を転がるように急がせた。
 きゅうに手の甲がぴりぴりしだした。見ると一寸《いっすん》ばかり蚯蚓脹《みみずば》れになっていた。涙がまたなんとなく眼の中に湧いてきた。
     *    *    *
 おぬいは手さぐりで夢中に母にすがりつこうとしていたらしかった。眼をさましてみると、母は背面向《むこうむ》きになってはいるが、自分のすぐ側に、安らかな鼾《いびき》を小さくかきながら寝入っていた。
 ほっ[#「ほっ」に傍点]と安心はした。けれどもどうしてこんないやな夢ばかり見るのだろうとおぬいは情けなかった。枕紙に手をやってみるとはたしてしとどに濡れていた。夢の中で絶え入るように泣いてしまったのだから、濡れていると思ったらやはり濡れていた。眼のあたりを触ってみると
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