あかぎれ一つ切らさず、楽をしながら出世する。その犠牲になっているのだぞという素振《そぶ》りを、彼は機会あるごとに言葉にも動作にも現わした。それは清逸の心を暗くした。
 貧しい気づまりな食卓を四人の親子は囲んだ。父の前には見なれた徳利と、塩辛《しおから》のはいった蓋物《ふたもの》とが据えられて、父は器用な手酌で酒を飲んだ。しかし不断ならば、盃を取った場合に父の口から繰りだされるはずの「いやどうも」という言葉は一つも出てこなかった。純次は食卓から胸にかけて麦《むぎ》たくさんなためにぽろぽろする飯をこぼし散らかすと、母は丹念にそれを拾って自分の口に入れた。母はいい母だがまったく教育がない。教育のないのを自分のひけめにして、父から圧制されるのを天から授かった運命のように思っているらしかった。末子の純次に対しては無智な動物のような溺愛《できあい》を送っていた。その母が清逸に対しての態度は知れている。
「もう鮭はたくさん上《のぼ》ってきだしたのか」
 清逸はたまりかねて純次にこう尋ねてみた。
「うむ」
 という答えが飯を頬張った口の奥から出るだけだった。
「今年は何台卵を孵《か》えすんだね」
「知らねえ」
 母がさすがに気をかねて、
「知らねえはずはあるめえさ」
 と口添《くちぞ》えすると、純次は低能者に特有な殺気立った眼を母の額の辺に向けて、
「知らねえよ」
 と言いながら持ち合わせた箸で食卓を二度たたいた。
 大食の純次はまだ喰いつづけていたし、父はまだ飯にしないので、母も箸を取らずにいたが、清逸は熱感があって座に堪えないので、軽く二杯だけむりに喰うと、父の自慢の蓬茶《よもぎちゃ》という香ばかり高くて味の悪い蓬の熱い浸液《しんえき》をすすりこんで中座した。
 純次の部屋にあててある入口の側の独立した三畳の小屋にはいってほっ[#「ほっ」に傍点]とした。母がつづいてはいってきた。丸々と肥えた背の低い母は、清逸を見上げるようにして不恰好に帯を揺りあげながら、
「やっぱりよくないとみえるね」
 と心配を顔に現わしていってくれた。
「寒さが増してくるとどうしてもよくないさ。けれどもそんなにひどいことはない。熱があるようだから先に寝かしてもらいます」
「そだそだ、それがいいことだ」
 そして純次の床を部屋の上《かみ》に、清逸の床を部屋の下《しも》にとったほど無智であるが、愛情の偏頗《へ
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