ひょうきん》なようで油断のならないところがある。あの男はこうと思いこむと事情も顧みないで実行に移る質《たち》だ。人からは放漫と思われながら、いざとなると大掴みながらに急所を押えることを知っている。おぬいさんにどんな心を動かしていくかもしれない。……
 蝿が素早く居所をかえた。
 俺はおぬいさんを要するわけではない。おぬいさんはたびたび俺に眼を与えた。おぬいさんは異性に眼を与えることなどは知らない。それだから平気でたびたび俺に眼を与えたのだ。おぬいさんの眼は、俺を見る時、少し上気した皮膚の中から大きくつやつや[#「つやつや」に傍点]しく輝いて、ある羞《はにか》みを感じながらも俺から離れようとはしない。心の底からの信頼を信じてくださいとその眼は言っている。眼はおぬいさんを裏切っている。おぬいさんは何にも知らないのだ。
 蝿がまた動いた。軽い音……
 おぬいさんのその眼のいうところを心に気づかせるのは俺にとっては何んでもないことだ。それは今までも俺にはかなりの誘惑だった。……
 清逸はそこまで考えてくると眼の前には障子も蝿もなくなっていた。彼の空想の魔杖の一振りに、真白な百合《ゆり》のような大きな花がみるみる蕾《つぼみ》の弱々しさから日輪のようにかがやかしく開いた。清逸は香りの高い蕊《しべ》の中に顔を埋めてみた。蒸《む》すような、焼くような、擽《くすぐ》るような、悲しくさせるようなその香り、……その花から、まだ誰も嗅《か》がなかった高い香り……清逸はしばらく自分をその空想に溺《おぼ》れさせていたが、心臓の鼓動の高まるのを感ずるやいなや、振り捨てるように空想の花からその眼を遠ざけた。
 その時蝿は右の方に位置を移した。
 清逸の心にある未練を残しつつその万花鏡《まんげきょう》のような花は跡形もなく消え失《う》せた。
 園ならばいい。あの純粋な園にならおぬいさんが与えられても俺には不服はない。あの二人が恋し合うのは見ていても美しいだろう。二人の心が両方から自然に開けていって、ついに驚きながら喜びながら互に抱き合うのはありそうなことであって、そしていいことだ。俺はとにかく誘惑を避《さ》けよう。俺はどれほど蠱惑的《こわくてき》でもそんなところにまごついてはいられない。しかも今のところおぬいさんは処女の美しい純潔さで俺の心を牽《ひ》きつけるだけで、これはいつかは破れなければならない
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