こと。それらは呪《のろ》うべき心のゆるみの仕事ではなかったか。……園は自分自身が苦々しく省《かえり》みられた。
 やがて園は懺悔《ざんげ》するような心持で、努めて心を押し鎮《しず》めて、いつもどおりの静かな言葉に還りながら言いだした。
「話が途切《とぎ》れましたが、……僕は今学校の鐘の音に聞きとれていたもんですから……あれを聞くと僕は自分の家のことを思いだします。僕の家は浄土宗の寺です。だから小さい時から釣鐘の音やあの宗旨《しゅうし》で使う念仏の鉦《かね》の音は聞き慣《な》れていたんです。それは今でも耳についていて忘れません。そのためか鐘の音を聞くと僕は妙に考えさせられます。特別、学校のあの鐘には僕はある忘れられない経験を持っています。……そうですね、その話はやめておきましょう……とにかく僕はあの鐘を聞くと、父と兄とにむりに頼んで、こんな所に修業に出てきたのを思いだすんです。……」
 ここまで重いながら言葉を運んでくると、園はまた言わないでもいいことを言い続けているような気|尤《とが》めがした。園は今日は自分ながらどうかしていると思った。それでこれまでの無駄事《むだごと》の取りかえしをするようにと、
「そんなわけで僕は研究室にさえいればいい人間ですし、そうしていなければいけない人間です。ですから星野君はこの手紙のようなことを言っていますが、僕は辞退したいと思います。どうか悪《あ》しからず」
 とできるだけ言葉少なに思いきっていってしまった。
 伏目になったおぬいさんの前髪のあたりが小刻みに震《ふる》えるのを見たけれども、そして気の毒さのあまり何か言い足そうとも思ってみたけれども、園の心の中にはある力が働いていてどうしてもそうさせなかった。
 園は静かに茶を啜《すす》り終った。星野の手紙をおぬいさんの方に押しやった。古ぼけた黒い毛繻子《けじゅす》の風呂敷に包んだ書物を取り上げた。もう何んにもすることはなかった。座を立った。
 暗い夜道を急ぎ足で歩きながら園は地面を見つめてしきりに右手を力強く振りおろした。
 きゅうに遠くの方で急雨のような音がした。それがみるみる高い音をたてて近づいてきた。と思う間もなく園の周囲には霰《あられ》が篠《しの》つくように降りそそいだ。それがまた見る間に遠ざかっていって、かすかな音ばかりになった。
 第二陣、第三陣が間をおいて襲ってきた。
 
前へ 次へ
全128ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング