に来べき日なのだ。
「まあ……どうぞ」
といっておぬいさんは障子の後に身を開いた。園に対しても十分の親しみを持っているのを、その言葉や動作は少しの誇張も飾りもなく示していた。……園は上り框《かまち》に腰をかけて、形の崩れた編上靴を脱ぎはじめた。
いつ来てみても園はこの家に女というものばかりを感じた。園の訪れる家庭という家庭にはもちろん女がいた。しかしそこには同時に男もいるのだ。けれどもおぬいさんは産婆を職業としているその母と二人だけで暮しているのだから。
客間をも居間をも兼ねた八畳は楕円形《だえんけい》の感じを見る人に与えた。女の用心深さをもってもうストーヴが据えつけてあった。そしてそれが鉛墨《えんぼく》でみごとに光っていた。柱のめくり暦は十月五日を示して、余白には、その日の用事が赤心《あかしん》の鉛筆で細かに記してあった。大きな字がお母さんで、小さな字がおぬいさんだということさえきちんと判っていた。部屋の中央にあるたも[#「たも」に傍点]のちゃぶ台には読みさしの英語の本が開いたまま伏せてあったが、その表紙には反物のたとう紙で綿密に上表紙がかけてあった。男である園は、その部屋の中では異邦人であることをいつでも感じないではいられなかった。
けれどもその感じは彼を不愉快にしないばかりでなく、反対に彼を慰めた。ただ若いおぬいさんが普通の処女であったなら、その処女と二人でさし向いに永く坐っているということは、園には自分の性癖から堪《た》えがたいことだったろう。彼はどんなに無害なことでも心にもない口をきくことができなかったから。また処女に特有な嬌羞《はにかみ》というものをあたりさわりなく軟らげ崩して、安気な心持で彼と向い合うようにさせる術《すべ》をまったく知らなかったから。そして一般に日本の処女が持ち合わしている話題は一つとして園の生活の圏内にはいってくるような性質のものではなかったから。童貞でありながら園は女性に対してむだなはにかみはしなかった。しかし相手がはにかむ場合には園は黙って引きさがるほかはなかった。
けれどもおぬいさんの処ではそんな心配は無用だったから園はなぐさめられたのだ。彼は持ちだされた座蒲団の処にいって坐った。おぬいさんは机の上の読みさしの本を慌てて押し隠すようなこともせずに、静かにそれを取り上げて部屋の隅に片づけた。
「学校の方で星野さんにお遇い
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