ぱら聞かそうというそれは声なのだろう。どこまでも澄みきっていながら、しかも震いつきたいほどの暖かみを持ったそのしなやかな声は、悲しい物語を、見るように渡瀬の耳の奥に運んできた。始めのうちは、おぬいさんがつかえるとすぐに見てやっていたが、だんだんそんな注意は遠退いて、ほれぼれとその声に聴き入らずにはいられなくなった。おぬいの声にもしだいに熱情が加わってくるようにみえた。渡瀬は知らず知らず書物から眼を離して、自分のすぐ前にあるおぬいさんの髪、額、鼻筋、細長い眉、睫毛、物いうごとにかすかに動くやや上気した頬《ほお》の上部、それらを見るともなく見やりはじめた。すべてが何んという憎むべき蠱惑《こわく》だろう。これはやりきれない御馳走《ごちそう》だ。耳と眼とが酔ったくれていうことを聴かなくなってしまう、と渡瀬はわくわくしながら考えた。それが渡瀬には容易に専有《せんゆう》することのできない宝《たから》だと考えれば考えるほど、無体な欲求は激しくなった。教師としてこれほど信頼されているのをという後ろめたさを彼は知らず知らずだんだんに踏み越えていった。しびれるような欲望の熱感が健康すぎるほどな彼の五体をめぐり始めた。
 色慾の遊戯に慣れた渡瀬には、恋愛などというしゃら[#「しゃら」に傍点]臭いものは、要するに肉の接触に衣をかけたまやかしものにすぎない。男女の間の情愛は肉をとおして後に開かれるのだと、今までの経験からも決《き》めている渡瀬には、これほど嵩《こう》じてきた恐ろしい衝動を堰《せ》きとめる力はもうなくなりかけていた。彼は顔にまで充血を感じながら、「おぬいさん逃げるなら今のうちだ。早く逃げないと僕は何をするか、自分でも分らないよ」と憫《あわ》れむがごとくに自分の前にうずくまる豊麗な新鮮な肉体に心の中でささやいたが、同時に、「逃げるなら逃げてみろ。逃げようとて逃がしてたまるか」と頑張るものがますます勢いを逞《たくま》しくした。眼の前がかすみ始めた。
 いつの間にかおぬいさんの声がしなくなっていた。それに気づくとさすがに渡瀬は我れに返った。そしてさすがに自分を恥じた。おぬいさんは渡瀬が今まで妄想していたところよりあまりかけ離れた清いところにいた。彼は書物の方に顔を寄せながら、ともかく、
「ええと、それは」
 といったが、どこに不審の箇所があるのか皆目《かいもく》知れなかった。
「どこ
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