的な女性といふものから脱して見事な人になつてゐる。女流作家として仙子氏をまつことはもう出來ない。
 違つた意味に於て「醉ひたる商人」「お三輪」の如き作品も亦深く尊重されなければならないと思ふ。それは人間性の習作と見て素晴らしい效果を收めてゐる。あれだけにしつかり物を見る眼があつて、自己への徹底が強い響を傳へるのだなといふことを首肯させる。輕妙に見えるユーモアと皮肉との後ろに、作者は個性と運命とに對する深い洞察と同情とを寄せてゐるではないか。
 私は一々の作品に對してもういふことをしまい。仙子氏はその心底に本當の藝術家の持たねばならぬ誠實を持つてゐた。而してその誠實が年を追ふに從つて段々と光を現はして來てゐる。この作者はいゝ加減な所で凋落すべき人ではなかつたに違ひない。年を經れば經るほど本當の藝術を創り上ぐべき素質を十分に備へてゐたことが、その作品によつて窺はれる。十分の才能を徹視の支配の下におき、女性としては珍らしい程の徹視力を自分の性格と結びつけてゐたのはこの作者だつた。だからその藝術が成長するに從つて益根柢の方へと深まつて行つたのだ。この點に於て彼女の道は極めて安全だつた。而かもその道が僅かに踏まれたばかりで彼女は死んでしまつたのだ。
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(前略) ところが體が惡くなつて來るために、頭がよくなつて來るのか、それともあまり頭が明晰になり過ぎるために體を倒してしまふのか、どつちが原因だかいつも分りませんが、とにかく少し具合が惡くなつて來ると、却て手紙なども書きたくなります。今度だつて惡寒から熱、惡寒から熱といふしつきりなしのすきをねらつて――しかし今はもう惡寒はやみましたから御安心下さいまし――すきをねらつてといふよりもすきを掠奪して、よく手紙を書きます。頭がなんでも何かさせないではおかないのです。それに自分でも恐しいほどはつきりして來て、もくろんでゐるある長いものゝ中の主人公や女主人公が、惱んだり、苦しんだり、愛したり、愛さなかつたり、墮落したり、救はれたりしてゐるのと一所になつて、自分も苦しんだり泣いたりしてゐます。私の眼にはこの頃涙が絶えません。それはいつの間にか泣いてゐるので、みんな空想の事件や、感情のためなんです。群雄割據のやうにいろんな話が一時に頭を擡げて來て、たつた一人の私をひつぱり凧にしてゐます。若し今この要求のまゝに從つたら、こつちを二三枚、あつちを二三枚といふやうに頭だけのものがいくつも出來て、それでおしまひになつてしまふでせう。自分ではちやんと、到底その一つだつても完成しきらないのをよく知りぬいてゐますもの。これが病氣に惡いんだといふこともよく知つてゐますから、讀むこと又書くことは勿論、どんなにいゝ言葉や場面がうかんで來ても、それを拭き消し拭き消ししてゐます。……(中畧)病氣をしてからもう足かけ四年になります。暗いことを忘れかけると思ひ出させられ思ひ出させられしてさんざん生殺しの目にあはされました。隨分よくこらへたつもりだけれども、それでもまだ足りないなら、いくらでもお前の滿足するまでこらへようなどと齒をくひしばる下から、とてつもない侮蔑の色がわが口許にのぼつてゐるのにこの頃よく氣がつきます。なぜだか分りません。反抗かしらとも思つてみるけれど、どうもちがひます。もつともつと靜な強い心なのです。傲然として最も大きい恐怖の上に立つてゐるのです。なんにも怖くないのです。――殊によつたら、人が何等の事件的原因なくして、自殺を誘惑されるのは、こんな時ではないか知らなどとも思ひました。(下略)
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 これは仙子氏が死ぬ年の正月に、私にあてゝ送つてくれた手紙の一節だ。彼女の胸の中にどれほど實感から生れた素材が表現を待つて潜んでゐたかを知ることが出來ると共に、死を始終眼前においてゐねばならなかつたその心に、どんな力の成長が成就されつゝあつたかは、おぼろげながらも察することが出來る。
 最もいゝのは仙子氏が野心家ではなかつたことだらう。實生活の上に彼女がどれほどの覇氣を持つてゐたかは知らない。又創作家としてどれ程の矜恃を持つてゐたかそれも知らない。少くとも仙子氏には自己の能力を放圖もなく買ひ被つて、自分に背負投げを喰ふやうな醜いことは絶對にしなかつたといつていゝだらう。いかなる野心があつたにしても、少くとも彼女は自分の取扱ふ藝術そのものに對してはいつまでも謙抑な處女性を持ち續けてゐた。自分の持つ心の領土の限界を知り、そこから苛察に亘らないだけに貢物を收める勝れた聰明な頭腦を持つてゐた。だからその作品には汚すことの出來ない純眞な味ひが靜かに充ち滿ちてゐる。これは一人の藝術家にとつて、やさしく見えて決してやさしくない仕事だといはなければならない。極めて眞摯な性格のみがこのことを成就し得
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