と小さな声で言います。
「天に在《ま》します神様――お助けください」
とおかあさんはいのりました。
と黒鳥の歌が松の木の間で聞こえるとともに馬どもはてんでんばらばらにどこかに行ってしまって、四囲《あたり》は元の静けさにかえりました。
そこで二人は第二の門を通ってまた※[#「饌」の「しょくへん」に代えて「金」、第4水準2−91−37]《かきがね》をかけました。
その先には作物を作らずに休ませておく畑があって、森の中よりもずっと熱い日がさしていました。灰色《はいいろ》の土塊《どかい》が長く幾畦《いくあぜ》にもなっているかと思うと、急にそれが動きだしたので、よく見ると羊《ひつじ》の群れの背《せ》が見えていたのでした。
羊、その中にも小羊はおとなしいけものですが、雄羊《おひつじ》はいじめもしないのにむやみに人にかかるいたずらをするやつで、うっかりはしていられません。ところがその雄羊が一|匹《ぴき》小溝《こみぞ》を飛《と》び越《こ》えて道のまん中にやって来ました。しかして頭を下げたなりであとしざりをします。
「私こわいママ」
と胸をどきつかせながらむすめが申します。
「めぐみ深い在天の神様、私どもをお助けください」
と言って天の一方を見上げながらおかあさんがいのりますと、そこに蝶《ちょう》のような羽ばたきをさせながら、小さな雲雀《ひばり》がおりていました。そしてそれが歌をうたいますと、雄羊は例の灰色の土塊の中にすがたをかくしてしまいました。
そこで今度は第三の門に来ましたが、ここはじゅくじゅくの湿地《しっち》ですから、うっかりすると足が滅入《めい》りこみます。所々の草むらは綿の木の白い花でかざった壁のようにも思われます。なにしろどろの中に落ちこまないようにまっすぐに歩かなければなりませんでした。おまけにここには、子どもたちがうっかりすると取ってしかられる、毒のある黒木いちごがはえていました。むすめは情けなさそうにそれを見ました。まだこの子は毒とはなんのことだか知りませんでしたから。
なお歩いて行きますと、木の間から何か白いものがやって来るのに気がつきました。見るうちに太陽はかくれて、白霧《はくむ》が四囲《あたり》を取りまきました。いかにも気味がよくありません。
するうちにその霧《きり》の中から、ねじ曲がった二本の角《つの》のある頭が出て、それがほえると、続いてたくさんの頭が現われ出て、だんだん近づいて来ました。
「こわうござんす、ママ、ほんとうにこわい」
と子どもが申します。
「偉大《いだい》なめぐみ深い神様、私どもにあわれみを垂《た》れさせたまえ」
とおかあさんは道のわきに行って、草むらと草むらとの間の沼《ぬま》の中へ身を伏《ふ》せて心の底からいのりました。
その時ひびきを立てて、海から大風が来て森の中をふきぬけました。この大きな神風にあっては森の中の木という木はみななびき伏しました。その中で一本のわかい松も幹《みき》をたわめて、寄るべないこのおかあさんの耳に木のこずえが何かささやきました。しかしておかあさんがむすめを抱かないほうの手を延ばしてその枝をつかむと、松はみずから立ちなおって、うれいにしずむおかあさんを沢《さわ》の中から救い上げてくれました。
その時霧はふきはらわれて、太陽はまた照り始めました。しかして二人は第四の門に近づきました。途中で帽子を落として来たおかあさんは、髪の毛で子どもの涙をぬぐってやりますと、子どもはうれしげにほおえみました。そのほおえみがまたあわれなおかあさんの心をなぐさめて、今までの苦しみをわすれて第五の門に着くほどの力が出てきました。ここまで来るともう気が確かになりました。なぜというと、向こうには赤い屋根と旗《はた》が見えますし、道の両側には白あじさいと野薔薇《のばら》が恋でもしているように二つずつならんで植わっていましたから。
むすめもひとりで歩けました。しかして手かごいっぱいに花を摘《つ》み入れました。聖ヨハネ祭の夜宮には人形のリザが、その花の中でいい夢《ゆめ》を見てねむるんです。
こんなふうにおもしろく、二人は苦労もわすれて歩きました。もう赤楊《はんのき》の林さえぬければ、「日の村」へ着くはずでした。やがて二人は丘《おか》を登って右に曲がろうとすると、そこにまた雄牛が一匹立っているのに出会いました。
にげる事もかないません。くずおれておかあさんはひざをつき、子どもをねかしてその上を守るように自分の頭を垂れますと、長い毛が黒いベールのように垂れ下がりました。
しかして両手をさし出してだまったなりでいのりました。子どもの額からは苦悶《くもん》の汗が血のしたたりのように土の上に落ちました。
「神様、私の命をおめしになるとも、この子の命だけはお助けください」
といのる
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