と、頭の上で羽ばたきの音がしますから、見上げると、白鳩が村の方に飛んで行って雄牛のすがたはもうありませんでした。
 おかあさんが子どもをさがしますと、道のそばで苺《いちご》を摘んでおりました。しかしておかあさんはその苺をだれがそこにはやしてくださったかをうなずきました。
 しかしてとうとう二人は六番めの門をくぐって町の中をさまよい歩きました。
 その町というのは、大きな菩提樹《ぼだいじゅ》や楓《かえで》の木のしげった下を流れる、緑の堤《つつみ》の小川の岸にありました。しかして丘の上には赤い鐘楼《しょうろう》のある白い寺だの、ライラックのさきそろった寺領の庭だの、ジャスミンの花にうもれた郵便局《ゆうびんきょく》だの、大槲樹《おおかしわのき》の後ろにある園丁《にわつくり》の家だのがあって、見るものことごとくはなやかです。そよ風になびく旗、河岸や橋につながれた小舟《こぶね》、今日こそ聖ヨハネの祭日だという事が察せられます。
 ところがそこには人の子一人おりません。二人はまず店に買い物に行って、そこでむすめは何か飲むつもりでしたが、店はみんなしまっていました。
「ママのどがかわきますよ」
 二人は郵便局に行きました。そこもしまっています。
「ママお腹《なか》がすきました」
 おかあさんはだまったままでした。子どもはなぜ日曜でもないのに店がしまって、そこいらに人がいないのかわかりませんでした。むすめは園丁《にわつくり》の所に行ってみましたが、そこもしまっていて、大きな犬が門の所に寝《ね》ころんでいるばかりでした。
「ママくたびれました」
「私もですよ、どこかで水を飲みましょうね」
 で二人は家ごとをおとずれてみましたが、いずれもしめてありました。子どもはこの上歩く事はできません、足はつかれてびっこをひいていました。おかあさんはむすめの美しいからだが横に曲がったのを見ると、もうたまらないで、道のそばにすわって子どもを抱き取りました。子どもはすぐ寝入《ねい》ってしまいました。
 その時鳩がライラックに来てとまって天国の歓喜と絶えせぬこの世の苦しみ悲しみを声美しく歌いました。
 おかあさんはねむった子どものあお向いた顔を見おろしました。顔のまわりの白いレースがちょうど白百合《しらゆり》の花びらのようでした。それを見るとおかあさんは天国を胸《むね》に抱いてるように思いました。
 ふと子どもは目をさまして水を求めました。
 おかあさんはだまっているほかありませんでした。
 子どもは泣きだして、
「お家《うち》に帰りましょう」
 と申します。
「あのおそろしい旅をもう一度ですか。とてもとても。私は海の中にはいるほうがまだましだと思う」
 とおかあさんは答えましたが、
 やはり子どもは、
「お家に行きたい」
 と言い張りました。
 おかあさんは立ち上がりました。
 見るとかなたの丘の後ろにわかい赤楊《はんのき》の林がありましたが、よく見ているとそれがしきりに動きます。それでおかあさんは、すぐそこには人が集まって、聖ヨハネ祭の草屋を作るために、その葉を採っているのだと気がつきました。しかしてそこには水があると見こみをつけてそっちに行ってみました。
 途中には生けがきに取りめぐらされて白い門のある小さな住居のあるのを見ましたが、戸は開いたままになって快く二人のはいるに任せてありました。おかあさんは門をはいって、芍薬《しゃくやく》と耘斗葉《おまき》の園《その》に行きました。見ると窓にはみんなカーテンが引いてありまして、しかもそれがことごとく白い色でした。ただ一つの屋根窓だけが開いていて、二つの棕櫚《しゅろ》の葉の間から白い手が見えて、小さなハンケチを別れをおしんでふるかのようにふっていました。
 おかあさんはまた入り口の階段《かいだん》を上ってみますと、はえしげった草の中に桃金嬢《てんにんか》と白薔薇との花輪が置いてありましたが、花よめの持つのにしては大き過ぎて見えました。
 それから露縁《ぬれえん》に上って案内をこうてみました。
 答える人はありませんので住居の中にはいって行きました。床の上に薔薇にうめられて、銀の足を持って黒綾《くろあや》の棺《ひつぎ》が置いてありました。しかしてその棺の中には、頭に婚礼のかんむりを着けたわかいむすめがねかしてありました。
 その室のかべというのは新しい荒《あら》けずりの松板でヴァニスをかけただけですから、節がよく見えていました。黒ずんだ枝の切り去られたなごりのたまご形の節の数々は目の玉のように思いなされました。
 この奇怪《きかい》な壁のすがたにはじめて目をとめたものはむすめでした。
「まあたくさんな目が」
 とそう言いだしました。
 なるほどいろいろな目がありました。大きくって親切らしいまじめな目や、小さくかがやくあ
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