ならば、必ず特異な性格となって世の中に現われたろうと思う。
 母の芸術上の趣味は、自分でも短歌を作るくらいのことはするほどで、かなり豊かにもっている。今でも時々やっているが、若い時にはことに好んで腰折れを詠《よ》んでみずから娯《たのし》んでいた。読書も好きであるが、これはハウスワイフということに制せられて、思うままにやらなかったようであるが、しかし暇があれば喜んで書物を手にする。私ども兄弟がそろってこういう方面に向かったことを考えると、母が文芸に一つの愛好心をもっていたことが影響しているだろうと思う。
 母についても一つ言うべきは、想像力とも思われるものが非常に豊かで、奇体にないことをあるように考える癖がある。たとえば人の噂《うわさ》などをする場合にも、実際はないことを、自分では全くあるとの確信をもって、見るがごとく精細に話して、時々は驚くような嘘《うそ》を吐《つ》くことが母によくある。もっとも母自身は嘘を吐いているとは思わず、たしかに見たり聞いたりしたと確信しているのである。
 要するに、根柢において父は感情的であり、母は理性的であるように想う。私たちの性格は両親から承《う》け継いだ冷静な北方の血と、わりに濃い南方の血とが混り合ってできている。その混り具合によって、兄弟の性格が各自《めいめい》異なっているのだと思う。私自身の性格から言えば、もとより南方の血を認めないわけにはいかないが、わりに北方の血を濃く承けていると思う。どっちかといえば、内気な、鈍重な、感情を表面に表わすことをあまりしない、思想の上でも飛躍的な思想を表わさない性質《たち》で、色彩にすれば暗い色彩であると考えている。したがって境遇に反応してとっさに動くことができない。時々私は思いもよらないようなことをするが、それはとっさの出来事ではない。私なりに永く考えた後にすることだ。ただそれをあらかじめ相談しないだけのことだ。こういう性質をもって、私の家のような家に長男に生まれた私だから、自分の志す道にも飛躍的に入れず、こう遅れたのであろうと思う。
 父は長男たる私に対しては、ことに峻酷《しゅんこく》な教育をした。小さい時から父の前で膝《ひざ》をくずすことは許されなかった。朝は冬でも日の明け明けに起こされて、庭に出て立木打ちをやらされたり、馬に乗せられたりした。母からは学校から帰ると論語とか孝経とかを読ませら
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