るところへ遠島された。それが父の七歳の時ぐらいで、それから十五か十六ぐらいまでは祖父の薫育《くんいく》に人となった。したがって小さい時から孤独で(父はその上一人子であった)ひとりで立っていかなければならなかったのと、父その人があまり正直であるため、しばしば人の欺くところとなった苦い経験があるのとで、人に欺かれないために、人に対して寛容でない偏狭な所があった。これは境遇と性質とから来ているので、晩年にはおいおい練れて、広い襟懐《きんかい》を示すようになった。ことにおもしろがったり喜んだりする時には、私たちが「父の笑い」と言っている、非常に無邪気な善良な笑い方をした。性質の純な所が、外面的の修養などが剥《は》がれて現われたものである。
母の父は南部すなわち盛岡藩の江戸留守居役で、母は九州の血を持った人であった。その間に生まれた母であるから、国籍は北にあっても、南方の血が多かった。維新の際南部藩が朝敵にまわったため、母は十二、三から流離の苦を嘗《な》めて、結婚前には東京でお針の賃仕事をしていたということである。こうして若い時から世の辛酸を嘗めつくしたためか、母の気性には濶達《かったつ》な方面とともに、人を呑んでかかるような鋭い所がある。人の妻となってからは、当時の女庭訓的な思想のために、在来の家庭的な、いわゆるハウスワイフというような型に入ろうと努め、また入りおおせた。しかし性質の根柢にある烈しいものが、間々《まま》現われた。若い時には極度に苦しんだり悲しんだりすると、往々卒倒して感覚を失うことがあった。その発作は劇《はげ》しいもので、男が二、三人も懸られなければ取り扱われないほどであった。私たちはよく母がこのまま死んでしまうのではないかと思ったものである。しかし生来の烈しい気性のためか、この発作がヒステリーに変わって、泣き崩《くず》れて理性を失うというような所はなかった。父が自分の仕事や家のことなどで心配したり当惑したりするような場合に、母がそれを励まし助けたことがしばしばあった。後に母の母が同棲するようになってからは、その感化によって浄土真宗に入って信仰が定まると、外貌が一変して我意のない思い切りのいい、平静な生活を始めるようになった。そして癲癇《てんかん》のような烈しい発作は現われなくなった。もし母が昔の女の道徳に囚《とらわ》れないで、真の性質のままで進んでいった
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