に、私は、あえて越ゆべからざる埓《らち》を越えようは思わないのだ。私のこんな気持ちに対する反証として、よくロシアの啓蒙運動が例を引かれるようだ。ロシアの民衆が無智の惰眠をむさぼっていたころに、いわゆる、ブルジョアの知識階級の青年男女が、あらゆる困難を排して、民衆の蒙を啓《ひら》くにつとめた。これが大事な胚子《はいし》となって、あのすばらしい世界革命がひき起こされたのだ。この場合ブルジョアジーの人々が、どれだけ民衆のために貢献したかは、想像も及ばないものがある。悔い改めたブルジョアは、そのままプロレタリアの人になることができるのだ。そう、ある人は言うかもしれない。しかし、この場合における私の観察は多少一般世人と異なっている。ロシアの民衆はその国の事情が、そのまま進んでいったならば、いつかは革命を起こすに、ちがいなかったのだ。
 インテリゲンチャの啓蒙運動はただいくらかそれを早めたにすぎない。そして、それを早めたことが、実際ロシアの民衆にとって、よいことであったか、悪いことであったかは、遽《にわ》かに断定さるべきではないと私は思うものだ。もし、私の零細な知識が、私をいつわらぬならば、ロシアの最近の革命の結果からいうと、ロシアの啓蒙運動は、むしろ民衆の真の勃興にさまたげをなしていると言っても差し支えないようだ。始めは露国のプロレタリアのためにいかにも希望多く見えた革命も、現在までに収穫された結果から見るならば、大多数の民衆よりも、ブルジョア文化によって洗礼を受けた帰化的民衆によって収穫されている。そして大多数のプロレタリアは、帝政時代のそれと、あまり異ならぬ不自由な状態にある。もし、ブルジョアとプロレタリアとの間に、はじめから渡るべき橋が絶えていて、プロレタリア自身の内発的な力が、今度の革命をひき起こしていたのならば、その結果は、はるかに異なったものであることは、誰でも想像するに難くないだろう。
 しかしこうはいったとて、実際の歴史上の事実として、ロシアには前述したような経路が起こり来たったのだから、私はその事実をも否定しようとするものではない。ブルジョアジーをなくするためには、この階級が自己防衛のために永年にわたって築き上げたあらゆる制度および機関(ことに政治機関)をプロレタリアの手中に収め、矛《ほこ》を逆にしてブルジョアジーを亡滅に導かねばならぬ。ブルジョアジーが亡滅すれば、その所産なるすべての制度および機関はおのずから亡滅して、新たなる制度および機関が発生するであろうとは、レニン自身が主張するところで、実際において、歴史的事実としては、かくのごとき経路が今行なわれつつあるようだ。無産者の独裁政治とは、おそらくかかるものを意味するのであろう。まことに一つの生活様式が他の生活様式に変遷する場合において、前代の生活様式が一時に跡を絶って、全く異なった生活様式が突発するという事実はない。三つの生活様式の中間色をなす、過渡期の生活が起滅する間に、新しい生活様式が甫《はじ》めて成就されるであろう。歴史的に人類の生活を考察するとかくあることが至当なことである。
 しかしながら思想的にかかる問題を取り扱う場合には必ずしもかくある必要はない。人間の思想はその一特色として飛躍的な傾向をもっている。事実の障礙《しょうがい》を乗り越して或る要求を具体化しようとする。もし思想からこの特色を控除したら、おそらく思想の生命は半ば失われてしまうであろう。思想は事実を芸術化することである。歴史をその純粋な現われにまで還元することである。蛇行《だこう》して達しうる人間の実際の方向を、直線によって描き直すことである。もし社会主義の思想が真理であったとしても、もし実行という視角からのみ論ずるならば、その思想の実現に先だって、多くの中間的施設が無数に行なわれねばならぬ。いわゆる社会政策と称せられる施設、温情主義、妥協主義の実施などはすべてそれである。これらの修正策が施された後に、社会主義的思想ははじめて実現されるわけになるのだ。それならば社会政策的の施設する未だ行なわれようとはしなかった時代に、何を苦しんで社会主義の思想は説かれねばならなかったか。私はそれに答えて、社会主義はその背景に思想的要素をたぶんに含んでいたからだといわねばならぬ。そしてこの思想がかくばかり早く唱えだされたということは、決して無益でも徒労でもないといいたい。なぜならば、かくばかり純粋な人の心の趨向《すうこう》がなかったならば、社会政策も温情主義も人間の心には起こりえなかったであろうから。
 以上の立場からして私は思想的にいいたい。「来たるべき文化がプロレタリアによって築かれるものならば、それは純粋にプロレタリア自身が有する思想と活力とによって築かれねばならぬ。少なくともそういう覚悟をもってその文
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