あとから婆やのいる方に駈けていらしった。
「婆や……どうしたの」
お母さんは僕を押しのけて、婆やの側に来てこう仰有《おっしゃ》った。
「八っちゃんがあなた……碁石でもお呑《の》みになったんでしょうか……」
「お呑みになったんでしょうかもないもんじゃないか」
お母さんの声は怒った時の声だった。そしていきなり婆やからひったくるように八っちゃんを抱き取って、自分が苦しくってたまらないような顔をしながら、ばたばた手足を動かしている八っちゃんをよく見ていらしった。
「象牙《ぞうげ》のお箸《はし》を持って参《まい》りましょうか……それで喉《のど》を撫《な》でますと……」婆やがそういうかいわぬに、
「刺《とげ》がささったんじゃあるまいし……兄さんあなた早く行って水を持っていらっしゃい」
と僕の方を御覧《ごらん》になった。婆やはそれを聞くと立上ったが、僕は婆やが八っちゃんをそんなにしたように思ったし、用は僕がいいつかったのだから、婆やの走るのをつき抜《ぬけ》て台所に駈けつけた。けれども茶碗《ちゃわん》を探してそれに水を入れるのは婆やの方が早かった。僕は口惜《くや》しくなって婆やにかぶりついた。
「水は僕が持ってくんだい。お母さんは僕に水を……」
「それどころじゃありませんよ」
と婆やは怒ったような声を出して、僕がかかって行くのを茶碗を持っていない方の手で振りはらって、八っちゃんの方にいってしまった。僕は婆やがあんなに力があるとは思わなかった。僕は、
「僕だい僕だい水は僕が持って行《ゆ》くんだい」
と泣きそうに怒って追っかけたけれども、婆やがそれをお母さんの手に渡すまで婆やに追いつくことが出来なかった。僕は婆やが水をこぼさないでそれほど早く駈けられるとは思わなかった。
お母さんは婆やから茶碗を受取ると八っちゃんの口の所にもって行った。半分ほど襟頸《えりくび》に水がこぼれたけれども、それでも八っちゃんは水が飲めた。八っちゃんはむせて、苦しがって、両手で胸の所を引っかくようにした。懐《ふとこ》ろの所に僕がたたんでやった「だまかし船《ふね》」が半分顔を出していた。僕は八っちゃんが本当に可愛そうでたまらなくなった。あんなに苦しめばきっと死ぬにちがいないと思った。死んじゃいけないけれどもきっと死ぬにちがいないと思った。
今まで口惜しがっていた僕は急に悲しくなった。お母さんの顔が真蒼《まっさお》で、手がぶるぶる震えて、八っちゃんの顔が真紅《まっか》で、ちっとも八っちゃんの顔みたいでないのを見たら、一人ぼっちになってしまったようで、我慢のしようもなく涙が出た。
お母さんは僕がべそをかき始めたのに気もつかないで、夢中になって八っちゃんの世話をしていなさった。婆やは膝《ひざ》をついたなりで覗《のぞ》きこむように、お母さんと八っちゃんの顔とのくっつき合っているのを見おろしていた。
その中《うち》に八っちゃんが胸にあてがっていた手を放して驚いたような顔をしたと思ったら、いきなりいつもの通りな大きな声を出してわーっと泣き出した。お母さんは夢中になって八っちゃんをだきすくめた。婆やはせきこんで、
「通りましたね、まあよかったこと」
といった。きっと碁石がお腹《なか》の中にはいってしまったのだろう。お母さんも少し安心なさったようだった。僕は泣きながらも、お母さんを見たら、その眼に涙が一杯たまっていた。
その時になってお母さんは急に思い出したように、婆やにお医者さんに駈けつけるようにと仰有った。婆やはぴょこぴょこと幾度《いくど》も頭を下《さげ》て、前垂《まえだれ》で、顔をふきふき立って行った。
泣きわめいている八っちゃんをあやしながら、お母さんはきつい眼をして、僕に早く碁石をしまえと仰有った。僕は叱《しか》られたような、悪いことをしていたような気がして、大急ぎで、碁石を白も黒もかまわず入れ物にしまってしまった。
八っちゃんは寝床の上にねかされた。どこも痛くはないと見えて、泣くのをよそうとしては、また急に何か思い出したようにわーっと泣き出した。そして、
「さあもういいのよ八っちゃん。どこも痛くはありませんわ。弱いことそんなに泣いちゃあ。かあちゃんがおさすりしてあげますからね、泣くんじゃないの。……あの兄さん」
といって僕を見なすったが、僕がしくしくと泣いているのに気がつくと、
「まあ兄さんも弱虫ね」
といいながらお母さんも泣き出しなさった。それだのに泣くのを僕に隠して泣かないような風《ふう》をなさるんだ。
「兄さん泣いてなんぞいないで、お坐蒲団《ざぶとん》をここに一つ持って来て頂戴《ちょうだい》」
と仰有った。僕はお母さんが泣くので、泣くのを隠すので、なお八っちゃんが死ぬんではないかと心配になってお母さんの仰有るとおりにしたら、ひょっとして八っ
前へ
次へ
全4ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング