出し始めた。
傘もない彼れは濡れるまゝで進んで行つた。ふと彼れは鳴きかはす鳥の聲を聞きつけて又脚をとめて山の方を振り仰いだ。街道のそばに逼つた山は非常な高さだつた。彼れはその高みを見上げるに從つて不思議な恐怖を感じた。山には處女林が麓から頂までぐつすり[#「ぐつすり」に傍点]込んで生ひ茂つてゐた。雨氣が樹と樹との間に漂ふので、凡ての樹は個性を囘復して、うざ/\する程むらがり集つてゐた。その樹の凡てが奇異な言葉で彼れに呼びかけた。その樹の言葉に綾をかけて、かけす[#「かけす」に傍点]が雨に居所を襲はれて、けたゝましく鳴きかはした。
山が語る。嘗て聞いた事のない不可解な、物凄い、奇異な言葉で山が語る。
彼れはそれを窃み聞きした。
恐怖の爲めに彼れの全身は唯がた[#「がた」に傍点]/\と震へた。
彼れは始めて孤獨の中に自分が段々慣れひたつて行く事を感じた。而して彼れは言葉につくせぬなつかしさを以て、垣根の花豆と底の淺い井戸とを思ひ浮べた。
やゝ暫らくして雨に濡れまさる彼れは又川上の方へ向いて街道を歩き始めた。雨に煙る泥道の上には彼れ一人の影が唯一つ動いた。
底本:「有島武郎
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