うなうすら寒い細雨が降るのだらうと彼れは川上から川下にかけてずつと見渡して見た。萌えさかつた堤の青草は霧のやうな乳白色を含んで、河原の川柳はそよ風にざわ/\と騷いではゐたが、雨の脚はまだ何處にも見えなかつた。悒鬱な氣分が靜かにおごそかに彼れを壓倒しようと試みるらしかつた。彼れはそれを物ともせずに、しつかりした歩き方で堤の上を大跨に歩いた。後ろの方には細長い橋を痩せた腕のやうに出した小さな町が川にまたがつて物淋しく横はつてゐた。
 行手の堤の蔭には不格好に尨大な黒ずんだ建物がごつちや[#「ごつちや」に傍点]になつて平らな麥畑の中に建つてゐた。近づいて見ると屠殺場だつた。その門の所に、肥つた四十恰好の女房と十二三のひよろり[#「ひよろり」に傍点]とした女の兒とが立つて此方を見てゐた。少女のヱプロンが恐ろしい程白かつた。堅く閉《しま》つた大きな門を背にして、二人は手をつないで彼れの近づくのを見守つてゐた。彼れは遠くからその二人を睨まへて歩いて行つた。程が段々近よつて、互の顏がいくらか見分けられるやうになると、二人は人違ひをしてゐたのに氣付いたらしく、吸ひ込まれるやうにそゝくさと木戸から這入つてしまつた。
 彼れは用のないものに氣を向けてゐたのを悔やむやうに又川上を眞向に見入つて進んで行つた。見詰めてゐた白いヱプロンは然し黒いしみ[#「しみ」に傍点]になつて、暫らくは眼の前をちら/\として離れなかつた。然しそれもやがて消えた。
 彼れは自分のつゝましやかな心を非常に可愛いく思つた。自分の大望の爲めに、意識して犧牲を要求しながら、少しも悔いなかつた古人の事を思ふと、人の生活の細やかな味ひが心の奧まで響き亙つた。虫けら一疋でも自信を以て自分の爲めに犧牲にする事の出來た人を彼れは同情と尊敬とを以て思ひやつた。事業と云ふ大きな波にゆられながら、この微妙な羅針盤を見詰めるしみ/″\した心持ちを何に譬へよう。
 人違ひながら自分を待つてゐる人のあつた事が、彼れには一種の感激の種となつた。木戸を潛る時その母と子とらしい二人の間に取かはされた小さな失望の會話をはつきり[#「はつきり」に傍点]想像して見る事が出來た。然し結局その人達とても無縁の衆生に過ぎない。而して彼れは結婚したばかりの妻の事を思つた。「お前も何時か犧牲にしてやるぞ」さう彼れは悲しくつぶやいた。
 その邊は去年大水の出た跡だ
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