を見て、今日も一ついい事をしたと清い心をもって夜のねむりにつきました。
そうこうするうちに気候はだんだんと寒くなってきました。青銅《からかね》の王子の肩ではなかなかしのぎがたいほどになりました。しかし王子は次の日も次の日も今まで長い間見て知っている貧しい正直《しょうじき》な人や苦しんでいるえらい人やに自分のからだの金を送りますので、燕はなかなか南に帰るひまがありません。日中は秋とは申しながらさすがに日がぽかぽかとうららかで黄金色の光が赤いかわらや黄になった木の葉を照らしてあたたかなものですから、燕は王子のおおせのままにあちこちと飛び回って御用をたしていました。そのうちに王子のからだの金はだんだんにすくなくなってかわいそうにこの間までまばゆいほどに美しかったおすがたが見る影《かげ》もないものになってしまいました。ある日の夕方王子は静かに燕をかえり見て、
「燕、おまえは親切ものでよくこの寒いのもいとわず働いてくれたが、私にはもう人にやるものがなくなってしまってこんなみにくいからだになったからさぞおまえも私といっしょにいるのがいやになったろう。もうお帰り、寒くなったし、ナイル川には美しい夏がおまえを待っているから。この町はもうやがて冬になるとさびしいし、おまえのようなしなやかなきれいな鳥はいたたまれまい。それにしてもおまえのようなよい友だちと別れるのは悲しい」とおっしゃいました。燕はこれを聞いてなんとも言えないここちになりまして、いっそ王子の肩で寒さにこごえて死んでしまおうかとも思いながらしおしおとして御返事もしないでいますと、だれか二人王子の像の下にある露台《ろだい》に腰《こし》かけてひそひそ話をしているものがあります。
王子も燕も気がついて見ますとそこには一人のわかい武士と見目《みめ》美しいおとめとが腰《こし》をかけていました。二人はもとよりお話を聞くものがあろうとは思いませんので、しきりとたがいに心のありたけを打ち明かしていました。やがて武士が申しますのには、
「二人は早く結婚《けっこん》したいのだけれどもたいせつなものがないのでできないのは残念だ。それは私の家では結婚する時にきっと先祖から伝えてきた名玉を結婚の指輪に入れなければできない事になっています、ところがだれかがそれをぬすんでしまいましたからどうしても結婚の式をあげることはできません」
おとめはもとよりこの武士がわかいけれども勇気があって強くってたびたびの戦いで功名《こうみょう》てがらをしたのをしたってどうかその奥《おく》さんになりたいと思っていたのですから、涙《なみだ》をはらはらと流しながら嘆息《たんそく》をして、なんのことばの出しようもありません。しまいには二人手を取りあって泣《な》いていました。
燕は世の中にはあわれな話もあるものだと思いながらふと王子をあおいで見ますと、王子の目からも涙がしきりと流れていました。燕はおどろいてちかぢかとすりよりながら「どうなさいました」と申しますと王子は、
「きのどくな二人だ。かのわかい武士の言う名玉というのは今は私のひとみになっている、二つのオパールの事であるが、王が私の立像を造られようとなされた時、私のひとみに使うほどりっぱな玉がどこにもなかったので、たいそう心をいためておいでなさると悪いへつらいずきな家来が、それはおやすい御用でございますと言ってあのわかい武士の父上をおとずれてよもやまの話のまぎれにそっとあの大事な玉をぬすんでしまったのだ。私はもう目が見えなくなってもいいからどうか私の目からひとみをぬき出してあの二人にやってくれ」
とおっしゃりながらなお涙をはらはらと流されました。およそ世の中でめくらほどきのどくなものはありません。毎日きれいに照らす日の目も、毎晩美しくかがやく月の光も、青いわか葉も紅《あか》い紅葉《もみじ》も、水の色も空のいろどりも、みんな見えなくなってしまうのです。試みに目をふさいで一日だけがまんができますか、できますまい。それを年が年じゅう死ぬまでしていなければならないのだから、ほんとうに思いやるのもあわれなほどでしょう。
王子はありったけの身のまわりをあわれな人におやりなすったのみか、今はまた何よりもたいせつな目までつぶそうとなさるのですもの。燕はほとほとなんとお返事をしていいのかわからないでうつぶいたままでこれもしくしく泣きだしました。
王子はやがて涙をはらって、
「ああこれは私が弱かった。泣くほど自分のものをおしんでそれを人にほどこしたとてなんの役にたつものぞ。心から喜んでほどこしをしてこそ神様のお心にもかなうのだ。昔《むかし》キリストというおかたは人間のためには十字架《じゅうじか》の上で身を殺してさえ喜んでいらっしたのではないか。もう私は泣かぬ。さあ早くこの玉を取ってあのわかい武士にやってくれ、さ、早く」
とおせきになります。燕はなおも心を定めかねて思いわずらっていますうちに、わかい武士とおとめとは立ち上がって悲しそうに下を向きながらとぼとぼとお城《しろ》の方に帰って行きます。もう日がとっぷりとくれて、巣《す》に帰る鳥が飛び連れてかあかあと夕焼けのした空のあなたに見えています。王子はそれをごらんになるとおしかりになるばかり、燕をせいて早くひとみをぬけとおっしゃいます。燕はひくにひかれぬ立場になって、
「それではしかたがございません、御免《ごめん》こうむります」
と申しますと、観念して王子の目からひとみをぬいてしまいました。おくれてはなるまいとその二つをくちばしにくわえるが早いか、力をこめて羽ばたきしながら二人のあとを追いかけました。王子はもとのとおり町を見下ろした形で立っていられますが、もうなんにも見えるのではありませんかった。
燕がものの四、五町も走って行って二人の前にオパールを落としますとまずおとめがそれに目をつけて取り上げました。わかい武士は一目見るとおどろいてそれを受け取ってしばらくは無言で見つめていましたが、
「これだ、これだ、この玉だ。ああ私はもう結婚ができる。結婚をして人一倍の忠義ができる。神様のおめぐみ、ありがたいかたじけない。この玉をみつけた上は明日《あす》にでも御婚礼《ごこんれい》をしましょう」
と喜びがこみ上げて二人とも身をふるわせて神にお礼を申します。
これを見た燕はどんなけっこうなものをもらったよりもうれしく思って、心も軽く羽根も軽く王子のもとに立ちもどってお肩の上にちょんとすわり、
「ごらんなさい王子様。あの二人の喜びはどうです。おどらないばかりじゃありませんか。ごらんなさい泣いているのだかわらっているのだかわかりません。ごらんなさいあのわかい武士が玉をおしいただいているでしょう」
と息もつかずに申しますと、王子は下を向いたままで、
「燕や私はもう目が見えないのだよ」
とおっしゃいました。
さて次の日に二人の御婚礼がありますので、町中の人はこの勇ましいわかい武士とやさしく美しいおとめとをことほごうと思って朝から往来をうずめて何もかもはなやかな事でありました。家々の窓からは花輪や国旗やリボンやが風にひるがえって愉快《ゆかい》な音楽の声で町中がどよめきわたります。燕はちょこなんと王子の肩にすわって、今馬車が来たとか今小児が万歳をやっているとか、美しい着物の坊様《ぼうさま》が見えたとか、背《せい》の高い武士が歩いて来るとか、詩人がお祝いの詩を声ほがらかに読み上げているとか、むすめの群れがおどりながら現われたとか、およそ町に起こった事を一つ一つ手に取るように王子にお話をしてあげました。王子はだまったままで下を向いて聞いていらっしゃいます。やがて花よめ花むこが騎馬《きば》でお寺に乗りつけてたいそうさかんな式がありました。その花むこの雄々《おお》しかった事、花よめの美しかった事は燕の早口でも申しつくせませんかった。
天気のよい秋びよりは日がくれると急に寒くなるものです。さすがににぎやかだった御婚礼が済みますと、町はまたもとのとおりに静かになって夜がしだいにふけてきました。燕は目をきょろきょろさせながら羽根を幾度《いくど》か組み合わせ直して頸《くび》をちぢこめてみましたが、なかなかこらえきれない寒さで寝《ね》つかれません。まんじりともしないで東の空がぼうっとうすむらさきになったころ見ますと屋根の上には一面に白いきらきらしたものがしいてあります。
燕はおどろいてその由を王子に申しますと、王子もたいそうおおどろきになって、
「それは霜《しも》というもので――霜と言う声を聞くと燕は葦《あし》の言った事を思い出してぎょっとしました。葦はなんと言ったか覚えていますか――冬の来た証拠《しょうこ》だ、まあ自分とした事が自分の事にばかり取りまぎれていておまえの事を思わなかったのはじつに不埒《ふらち》であった。長々御世話になってありがたかったがもう私もこの世には用のないからだになったからナイルの方に一日も早く帰ってくれ。かれこれするうちに冬になるととてもおまえの生命は続かないから」
としみじみおっしゃいました。燕はなんでいまさら王子をふりすてて行かれましょう。たとえこごえ死にに死にはするともここ一足《ひとあし》も動きませんと殊勝《しゅしょう》な事を申しましたが、王子は、
「そんなわからずやを言うものではない。おまえが今年《ことし》死ねばおまえと私の会えるのは今年限り。今日ナイルに帰ってまた来年おいで。そうすれば来年またここで会えるから」
と事をわけて言い聞かせてくださいました。燕はそれもそうだ、
「そんなら王子様来年またお会い申しますから御無事でいらっしゃいまし。お目が御不自由で私のいないために、なおさらの御不自由でしょうが、来年はきっとたくさんのお話を持って参りますから」
と燕は泣く泣く南の方へと朝晴れの空を急ぎました。このまめまめしい心よしの友だちがあたたかい南国へ羽をのして行くすがたのなごりも王子は見る事もおできなさらず、おいたわしいお首《つむり》をお下げなすったままうすら寒い風の中にひとり立っておいででした。
さてそのうちに日もたって冬はようやく寒くなり雪だるまのできる雪がちらちらとふりだしますと、もうクリスマスには間もありません。欲張りもけちんぼうも年寄りも病人もこのころばかりは晴れ晴れとなって子どものようになりますので、かしげがちの首もまっすぐに、下向きがちの顔も空を見るようになるのがこのごろです。で、往来の人は長々見わすれていた黄金の王子はどうしていられる事かとふりあおぎますと、おどろくまい事かすき通るほど光ってござった王子はまるで癩病《らいびょう》やみのように真黒《まっくろ》で、目は両方ともひたとつぶれてござらっしゃります。
「なんだこのぶざまは、町のまん中にこんなものは置いて置けやしない」
と一人が申しますと、
「ほんとうだ、クリスマス前にこわしてしまおうじゃないか」
と一人がほざきます。
「生きてるうちにこの王子は悪い事をしたにちがいない。それだからこそ死んだあとでこのざまになるんだ」とまた一人がさけびます。
「こわせこわせ」
「たたきこわせたたきこわせ」
という声がやがてあちらからもこちらからも起こって、しまいには一人が石をなげますと一人はかわらをぶつける。とうとう一かたまりのわかい者がなわとはしごを持って来てなわを王子の頸にかけるとみんなで寄ってたかってえいえい引っぱったものですから、さしもに堅固《けんご》な王子の立像も無惨《むざん》な事には礎《いしずえ》をはなれてころび落ちてしまいました。
ほんとうにかわいそうな御最期《ごさいご》です。
かくて王子のからだは一か月ほど地の上に横になってありましたが、町の人々は相談してああして置いてもなんの役にもたたないからというのでそれをとかして一つの鐘《かね》を造ってお寺の二階に収める事にしました。
その次の年あの燕がはるばるナイルから来て王子をたずねまわりましたけれども影《かげ》も形もありませんかった。
しかし今でもこの町に行く人があれば春でも夏でも秋でも冬でも
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