きってるんですよ。……ほんとうにあなた考えてごらんなさい……」
 勢い込んでなおいい募ろうとした古藤は、襖《ふすま》を明け開いたままの隣の部屋に愛子たちがいるのに気づいたらしく、
 「あなたはこの前お目にかかった時からすると、またひどくやせましたねえ」
 と言葉をそらした。
 「愛さんもうできて?」
 と葉子も調子をかえて愛子に遠くからこう尋ね「いゝえまだ少し」と愛子がいうのをしお[#「しお」に傍点]に葉子はそちらに立った。貞世はひどくつまらなそうな顔をして、机に両|肘《ひじ》を持たせたまま、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭のほうを見やって、三人の挙動などには目もくれないふうだった。垣根添《かきねぞ》いの木の間からは、種々な色の薔薇《ばら》の花が夕闇《ゆうやみ》の中にもちらほら[#「ちらほら」に傍点]と見えていた。葉子はこのごろの貞世はほんとうに変だと思いながら、愛子の縫いかけの布を取り上げて見た。それはまだ半分も縫い上げられてはいなかった。葉子の疳癪《かんしゃく》はぎり[#「ぎり」に傍点]ぎり募って来たけれども、しいて心を押ししずめながら、
 「これっぽっち[#「これっぽっち」に傍点]……愛子さんどうしたというんだろう。どれねえさんにお貸し、そしてあなたは……貞《さあ》ちゃんも古藤さんの所に行ってお相手をしておいで……」
 「僕《ぼく》は倉地さんにあって来ます」
 突然後ろ向きの古藤は畳に片手をついて肩越しに向き返りながらこういった。そして葉子が返事をする暇もなく立ち上がって階子段《はしごだん》を降りて行こうとした。葉子はすばやく[#「すばやく」に傍点]愛子に目くばせして、下に案内して二人《ふたり》の用を足してやるようにといった。愛子は急いで立って行った。
 葉子は縫い物をしながら多少の不安を感じた。あのなんの技巧もない古藤と、疳癖《かんぺき》が募り出して自分ながら始末をしあぐねているような倉地とがまとも[#「まとも」に傍点]にぶつかり合ったら、どんな事をしでかすかもしれない。木村を手の中に丸めておく事もきょう二人の会見の結果でだめになるかもわからないと思った。しかし木村といえば、古藤のいう事などを聞いていると葉子もさすがにその心根《こころね》を思いやらずにはいられなかった。葉子がこのごろ倉地に対して持っているような気持ちからは、木村の立場や心持ちがあからさま[#「あからさま」に傍点]過ぎるくらい想像ができた。木村は恋するものの本能からとうに倉地と葉子との関係は了解しているに違いないのだ。了解して一人《ひとり》ぽっちで苦しめるだけ苦しんでいるに違いないのだ。それにも係わらずその善良な心からどこまでも葉子の言葉に信用を置いて、いつかは自分の誠意が葉子の心に徹するのを、ありうべき事のように思って、苦しい一日一日を暮らしているに違いない。そしてまた落ち込もうとする窮境の中から血の出るような金を欠かさずに送ってよこす。それを思うと、古藤がいうようにその金が葉子の手を焼かないのは不思議といっていいほどだった。もっとも葉子であってみれば、木村に醜いエゴイズムを見いださないほどのんきではなかった。木村がどこまでも葉子の言葉を信用してかかっている点にも、血の出るような金を送ってよこす点にも、葉子が倉地に対して持っているよりはもっと[#「もっと」に傍点]冷静な功利的な打算が行なわれていると決める事ができるほど木村の心の裏を察していないではなかった。葉子の倉地に対する心持ちから考えると木村の葉子に対する心持ちにはまだすきがあると葉子は思った。葉子がもし木村であったら、どうしておめおめ米国|三界《さんがい》にい続けて、遠くから葉子の心を翻す手段を講ずるようなのんきなまねがして済ましていられよう。葉子が木村の立場にいたら、事業を捨てても、乞食《こじき》になっても、すぐ米国から帰って来ないじゃいられないはずだ。米国から葉子と一緒に日本に引き返した岡の心のほうがどれだけ素直《すなお》で誠しやかだかしれやしない。そこには生活という問題もある。事業という事もある。岡は生活に対して懸念《けねん》などする必要はないし、事業というようなものはてんで[#「てんで」に傍点]持ってはいない。木村とはなんといチても立場が違ってはいる。といったところで、木村の持つ生活問題なり事業なりが、葉子と一緒になってから後の事を顧慮してされている事だとしてみても、そんな気持ちでいる木村には、なんといっても余裕があり過ぎると思わないではいられない物足りなさがあった。よし真裸《まっぱだか》になるほど、職業から放れて無一|文《もん》になっていてもいい、葉子の乗って帰って来た船に木村も乗って一緒に帰って来たら、葉子はあるいは木村を船の中で人知れず殺して海の中に投げ込んでいようとも、木村の記憶は哀《かな》しくなつかしいものとして死ぬまで葉子の胸に刻みつけられていたろうものを。……それはそうに相違ない。それにしても木村は気の毒な男だ。自分の愛しようとする人が他人に心をひかれている……それを発見する事だけで悲惨は充分だ。葉子はほんとうは、倉地は葉子以外の人に心をひかれているとは思ってはいないのだ。ただ少し葉子から離れて来たらしいと疑い始めただけだ。それだけでも葉子はすでに熱鉄をのまされたような焦躁と嫉妬《しっと》とを感ずるのだから、木村の立場はさぞ苦しいだろう。……そう推察すると葉子は自分のあまりといえばあまりに残虐な心に胸の中がちく[#「ちく」に傍点]ちくと刺されるようになった。「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤のいった言葉が妙に耳に残った。
 そう思い思い布の一方を手早く縫い終わって、縫い目を器用にしごきながら目をあげると、そこには貞世がさっきのまま机に両|肘《ひじ》をついて、たかって来る蚊も追わずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭の向こうを見続けていた。切り下げにした厚い黒漆《こくしつ》の髪《かみ》の毛の下にのぞき出した耳たぶは霜焼けでもしたように赤くなって、それを見ただけでも、貞世は何か興奮して向こうを向きながら泣いているに違いなく思われた。覚えがないではない。葉子も貞世ほどの齢《とし》の時には何か知らず急に世の中が悲しく見える事があった。何事もただ明るく快く頼もしくのみ見えるその底からふっ[#「ふっ」に傍点]と悲しいものが胸をえぐってわき出る事があった。取り分けて快活ではあったが、葉子は幼い時から妙な事に臆病《おくびょう》がる子だった。ある時家族じゅうで北国のさびしい田舎《いなか》のほうに避暑に出かけた事があったが、ある晩がらん[#「がらん」に傍点]と客の空《す》いた大きな旅籠屋《はたごや》に宿《とま》った時、枕《まくら》を並べて寝た人たちの中で葉子は床の間に近いいちばん端《はし》に寝かされたが、どうしたかげんでか気味が悪くてたまらなくなり出した。暗い床の間の軸物の中からか、置き物の陰からか、得体《えたい》のわからないものが現われ出て来そうなような気がして、そう思い出すとぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと総身に震えが来て、とても頭を枕につけてはいられなかった。で、眠りかかった父や母にせがんで、その二人《ふたり》の中に割りこましてもらおうと思ったけれども、父や母もそんなに大きくなって何をばかをいうのだといって少しも葉子のいう事を取り上げてはくれなかった。葉子はしばらく両親と争っているうちにいつのまにか寝入ったと見えて、翌日目をさまして見ると、やはり自分が気味の悪いと思った所に寝ていた自分を見いだした。その夕方、同じ旅籠屋《はたごや》の二階の手摺《てすり》から少し荒れたような庭を何の気なしにじっ[#「じっ」に傍点]と見入っていると、急に昨夜の事を思い出して葉子は悲しくなり出した。父にも母にも世の中のすべてのものにも自分はどうかして見放されてしまったのだ。親切らしくいってくれる人はみんな自分に虚事《うそ》をしているのだ。いいかげんの所で自分はどん[#「どん」に傍点]とみんなから突き放されるような悲しい事になる[#底本では「悲しい事にある」]に違いな「。どうしてそれを今まで気づかずにいたのだろう。そうなった暁《あかつき》に一人《ひとり》でこの庭をこうして見守ったらどんなに悲しいだろう。小さいながらにそんな事を一人で思いふけっているともうとめどなく悲しくなって来て父がなんといっても母がなんといっても、自分の心を自分の涙にひたしきって泣いた事を覚えている。
 葉子は貞世の後ろ婆を見るにつけてふと[#「ふと」に傍点]その時の自分を思い出した。妙な心の働きから、その時の葉子が貞世になってそこに幻のように現われたのではないかとさえ疑った。これは葉子には始終ある癖だった。始めて起こった事が、どうしてもいつかの過去にそのまま起こった事のように思われてならない事がよくあった。貞世の姿は貞世ではなかった。苔香園《たいこうえん》は苔香園ではなかった。美人屋敷は美人屋敷ではなかった。周囲だけが妙にもやもやして心《しん》のほうだけが澄みきった水のようにはっきり[#「はっきり」に傍点]したその頭の中には、貞世のとも、幼い時の自分のとも区別のつかないはかなさ悲しさがこみ上げるようにわいていた。葉子はしばらくは針の運びも忘れてしまって、電灯の光を背に負って夕闇《ゆうやみ》に埋もれて行く木立ちにながめ入った貞世の姿を、恐ろしさを感ずるまでになりながら見続けた。
 「貞《さあ》ちゃん」
 とうとう黙っているのが無気味《ぶきみ》になって葉子は沈黙を破りたいばかりにこう呼んでみた。貞世は返事一つしなかった。……葉子はぞっ[#「ぞっ」に傍点]とした。貞世はああしたままで通り魔にでも魅いられて死んでいるのではないか。それとももう一度名前を呼んだら、線香の上にたまった灰が少しの風でくずれ落ちるように、声の響きでほろほろとかき消すようにあのいたいけな姿はなくなってしまうのではないだろうか。そしてそのあとには夕闇に包まれた苔香園の木立ちと、二階の縁側と、小さな机だけが残るのではないだろうか。……ふだんの葉子ならばなんというばかだろうと思うような事をおどおどしながらまじめに考えていた。
 その時階下で倉地のひどく激昂《げきこう》した声が聞こえた。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]として長い悪夢からでもさめたようにわれに帰った。そこにいるのは姿は元のままだが、やはりまごうかたなき貞世だった。葉子はあわてていつのまにか膝《ひざ》からずり落としてあった白布を取り上げて、階下のほうにきっ[#「きっ」に傍点]と聞き耳を立てた。事態はだいぶ大事らしかった。
 「貞《さあ》ちゃん。……貞ちゃん……」
 葉子はそういいながら立ち上がって行って、貞世を後ろから羽《は》がいに抱きしめてやろうとした。しかしその瞬間に自分の胸の中に自然に出来上がらしていた結願《けちがん》を思い出して、心を鬼にしながら、
 「貞《さあ》ちゃんといったらお返事をなさいな。なんの事です拗《す》ねたまね[#「まね」に傍点]をして。台所に行ってあとのすすぎ返しでもしておいで、勉強もしないでぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していると毒ですよ」
 「だっておねえ様わたし苦しいんですもの」
 「うそをお言い。このごろはあなたほんとうにいけなくなった事。わがままばかししているとねえさんはききませんよ」
 貞世はさびしそうな恨めしそうな顔をまっ赤《か》にして葉子のほうを振り向いた。それを見ただけで葉子はすっかり[#「すっかり」に傍点]打ちくだかれていた。水落《みぞおち》のあたりをすっ[#「すっ」に傍点]と氷の棒でも通るような心持ちがすると、喉《のど》の所はもう泣きかけていた。なんという心に自分はなってしまったのだろう……葉子はその上その場にはいたたまれないで、急いで階下のほうへ降りて行った。
 倉地の声にまじって古藤の声も激して聞こえた。

    四一

 階子段《はしごだん》の上がり口には愛子が姉を呼びに行こうか行くまいかと思案するらしく立っていた。そこを通り抜けて自分
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