。……けれどもね、木村とのあの事だけはまだ内証よ。いいおりを見つけて、わたしから上手《じょうず》にいって聞かせるまでは知らんふりをしてね……よくって……あなたはうっかり[#「うっかり」に傍点]するとあけすけ[#「あけすけ」に傍点]に物をいったりなさるから……今度だけは用心してちょうだい」
 「ばかだなどうせ知れる事を」
 「でもそれはいけません……ぜひ」
 葉子は後ろから背延びをしてそっ[#「そっ」に傍点]と倉地の後ろ首を吸った。そして二人は顔を見合わせてほほえみかわした。
 その瞬間に勢いよく玄関の格子戸《こうしど》ががらっ[#「がらっ」に傍点]とあいて「おゝ寒い」という貞世の声が疳高《かんだか》く聞こえた。時間でもないので葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として倉地から飛び離れた。次いで玄関口の障子《しょうじ》があいた。貞世は茶の間に駆け込んで来るらしかった。
 「おねえ様雪が降って来てよ」
 そういっていきなり[#「いきなり」に傍点]茶の間の襖《ふすま》をあけたのは貞世だった。
 「おやそう……寒かったでしょう」
 とでもいって迎えてくれる姉を期待していたらしい貞世は、置きごたつにはいってあぐらをかいている途方もなく大きな男を姉のほかに見つけたので、驚いたように大きな目を見張ったが、そのまますぐに玄関に取って返した。
 「愛ねえさんお客様よ」
 と声をつぶすようにいうのが聞こえた。倉地と葉子とは顔を見合わしてまたほほえみかわした。
 「ここにお下駄《げた》があるじゃありませんか」
 そう落ち付いていう愛子の声が聞こえて、やがて二人は静かにはいって来た。そして愛子はしとやかに貞世はぺちゃん[#「ぺちゃん」に傍点]とすわって、声をそろえて「ただいま」といいながら辞儀をした。愛子の年ごろの時、厳格な宗教学校で無理じいに男の子のような無趣味な服装をさせられた、それに復讐《ふくしゅう》するような気で葉子の装わした愛子の身なりはすぐ人の目をひいた。お下げをやめさせて、束髪《そくはつ》にさせた項《うなじ》とたぼ[#「たぼ」に傍点]の所には、そのころ米国での流行そのままに、蝶《ちょう》結びの大きな黒いリボンがとめられていた。古代紫の紬地《つむぎじ》の着物に、カシミヤの袴《はかま》を裾《すそ》みじかにはいて、その袴は以前葉子が発明した例の尾錠《びじょう》どめになっていた。貞世の髪はまた思いきって短くおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]に切りつめて、横のほうに深紅《しんく》のリボンが結んであった。それがこの才はじけた童女を、膝《ひざ》までぐらいな、わざと短く仕立てた袴と共に可憐《かれん》にもいたずらいたずらしく見せた。二人《ふたり》は寒さのために頬《ほお》をまっ紅《か》にして、目を少し涙ぐましていた。それがことさら二人に別々な可憐な趣《おもむき》を添えていた。
 葉子は少し改まって二人を火鉢《ひばち》の座から見やりながら、
 「お帰りなさい。きょうはいつもより早かったのね。……お部屋《へや》に行ってお包みをおいて袴《はかま》を取っていらっしゃい、その上でゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]お話しする事があるから……」
 二人の部屋からは貞世がひとりではしゃい[#「はしゃい」に傍点]でいる声がしばらくしていたが、やがて愛子は広い帯をふだん着《ぎ》と着かえた上にしめて、貞世は袴をぬいだだけで帰って来た。
 「さあここにいらっしゃい。(そういって葉子は妹たちを自分の身近にすわらせた)このお方《かた》がいつか双鶴館《そうかくかん》でおうわさした倉地さんなのよ。今まででも時々いらしったんだけれどもついにお目にかかるおりがなかったわね。これが愛子これが貞世です」
 そういいながら葉子は倉地のほうを向くともうくすぐったい[#「くすぐったい」に傍点]ような顔つきをせずにはいられなかった。倉地は渋い笑いを笑いながら案外まじめに、
 「お初に(といってちょっと頭を下げた)二人とも美しいねえ」
 そういって貞世の顔をちょっ[#「ちょっ」に傍点]と見てからじっ[#「じっ」に傍点]と目を愛子にさだめた。愛子は格別恥じる様子もなくその柔和な多恨な目を大きく見開いてまんじり[#「まんじり」に傍点]と倉地を見やっていた。それは男女の区別を知らぬ無邪気な目とも見えた。先天的に男というものを知りぬいてその心を試みようとする淫婦《いんぷ》の目とも見られない事はなかった。それほどその目は奇怪な無表情の表情を持っていた。

 「始めてお目にかかるが、愛子さんおいくつ」
 倉地はなお愛子を見やりながらこう尋ねた。
 「わたし始めてではございません。……いつぞやお目にかかりました」
 愛子は静かに目を伏せてはっきり[#「はっきり」に傍点]と無表情な声でこういった。愛子があの年ごろで男の前にはっきり[#「はっきり」に傍点]ああ受け答えができるのは葉子にも意外だった。葉子は思わず愛子を見た。
 「はて、どこでね」
 倉地もいぶかしげにこう問い返した。愛子は下を向いたまま口をつぐんでしまった。そこにはかすかながら憎悪《ぞうお》の影がひらめいて過ぎたようだった。葉子はそれを見のがさなかった。
 「寝顔を見せた時にやはり彼女《あれ》は目をさましていたのだな。それをいうのかしらん」
 とも思った。倉地の顔にも思いかけずちょっとどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]したらしい表情が浮かんだのを葉子は見た。
 「なあに……」激しく葉子は自分で自分を打ち消した。
 貞世は無邪気にも、この熊《くま》のような大きな男が親しみやすい遊び相手と見て取ったらしい。貞世がその日学校で見聞きして来た事などを例のとおり残らず姉に報告しようと、なんでも構わず、なんでも隠さず、いってのけるのに倉地が興に入って合槌《あいづち》を打つので、ここに移って来てから客の味を全く忘れていた貞世はうれしがって倉地を相手にしようとした。倉地はさんざん貞世と戯れて、昼近く立って行った。
 葉子は朝食がおそかったからといって、妹たちだけが昼食の膳《ぜん》についた。
 「倉地さんは今、ある会社をお立てになるのでいろいろ御相談事があるのだけれども、下宿ではまわりがやかましくって困るとおっしゃるから、これからいつでもここで御用をなさるようにいったから、きっとこれからもちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくいらっしゃるだろうが、貞《さあ》ちゃん、きょうのように遊びのお相手にばかりしていてはだめよ。その代わり英語なんぞでわからない事があったらなんでもお聞きするといい、ねえさんよりいろいろの事をよく知っていらっしゃるから……それから愛さんは、これから倉地さんのお客様も見えるだろうから、そんな時には一々ねえさんのさしずを待たないではきはきお世話をして上げるのよ」
 と葉子はあらかじめ二人《ふたり》に釘《くぎ》をさした。
 妹たちが食事を終わって二人であと始末をしているとまた玄関の格子《こうし》が静かにあく音がした。
 貞世は葉子の所に飛んで来た。
 「おねえ様またお客様よ。きょうはずいぶんたくさんいらっしゃるわね。だれでしょう」
 と物珍しそうに玄関のほうに注意の耳をそばだてた。葉子もだれだろうといぶかった。ややしばらくして静かに案内を求める男の声がした。それを聞くと貞世は姉から離れて駆け出して行った。愛子が襷《たすき》をはずしながら台所から出て来た時分には、貞世はもう一枚の名刺を持って葉子の所に取って返していた。金縁《きんぶち》のついた高価らしい名刺の表には岡一《おかはじめ》と記《しる》してあった。
 「まあ珍しい」
 葉子は思わず声を立てて貞世と共に玄関に走り出た。そこには処女のように美しく小柄《こがら》な岡が雪のかかった傘《かさ》をつぼめて、外套《がいとう》のしたたりを紅《べに》をさしたように赤らんだ指の先ではじきながら、女のようにはにかんで立っていた。
 「いい所でしょう。おいでには少しお寒かったかもしれないけれども、きょうはほんとにいいおりからでしたわ。隣に見えるのが有名な苔香園《たいこうえん》、あすこの森の中が紅葉館、この杉《すぎ》の森がわたし大好きですの。きょうは雪が積もってなおさらきれいですわ」
 葉子は岡を二階に案内して、そこのガラス戸越しにあちこちの雪景色を誇りがに指呼《しこ》して見せた。岡は言葉|少《すく》なながら、ちかちかとまぶしい印象を目に残して、降り下り降りあおる雪の向こうに隠見する山内《さんない》の木立《こだ》ちの姿を嘆賞した。
 「それにしてもどうしてあなたはここを……倉地から手紙でも行きましたか」
 岡は神秘的にほほえんで葉子を顧みながら「いゝえ」といった。
 「そりゃおかしい事……それではどうして」
 縁側から座敷へ戻《もど》りながらおもむろに、
 「お知らせがないもので上がってはきっといけないとは思いましたけれども、こんな雪の日ならお客もなかろうからひょっとか[#「ひょっとか」に傍点]すると会ってくださるかとも思って……」
 そういういい出しで岡が語るところによれば、岡の従妹《いとこ》に当たる人が幽蘭女学校に通学していて、正月の学期から早月《さつき》という姉妹の美しい生徒が来て、それは芝山内の裏坂に美人屋敷といって界隈《かいわい》で有名な家の三人姉妹の中の二人であるという事や、一番の姉に当たる人が「報正新報」でうわさを立てられた優《すぐ》れた美貌《びぼう》の持ち主だという事やが、早くも口さがない生徒間の評判になっているのを何かのおりに話したのですぐ思い当たったけれども、一日一日と訪問を躊躇《ちゅうちょ》していたのだとの事だった。葉子は今さらに世間の案外に狭いのを思った。愛子といわず貞世の上にも、自分の行跡がどんな影響を与えるかも考えずにはいられなかった。そこに貞世が、愛子がととのえた茶器をあぶなっかしい[#「あぶなっかしい」に傍点]手つきで、目八|分《ぶ》に持って来た。貞世はこの日さびしい家の内に幾人も客を迎える物珍しさに有頂天《うちょうてん》になっていたようだった。満面に偽りのない愛嬌《あいきょう》を見せながら、丁寧にぺっちゃん[#「ぺっちゃん」に傍点]とおじぎをした。そして顔にたれかかる黒髪を振り仰いで頭を振って後ろにさばきながら、岡を無邪気に見やって、姉のほうに寄り添うと大きな声で「どなた」と聞いた。
 「一緒にお引き合わせしますからね、愛さんにもおいでなさいといっていらっしゃい」
 二人《ふたり》だけが座に落ち付くと岡は涙ぐましいような顔をしてじっ[#「じっ」に傍点]と手あぶりの中を見込んでいた。葉子の思いなしかその顔にも少しやつれ[#「やつれ」に傍点]が見えるようだった。普通の男ならばたぶんさほどにも思わないに違いない家の中のいさくさ[#「いさくさ」に傍点]などに繊細すぎる神経をなやまして、それにつけても葉子の慰撫《いぶ》をことさらにあこがれていたらしい様子は、そんな事については一言《ひとこと》もいわないが、岡の顔にははっきり[#「はっきり」に傍点]と描かれているようだった。
 「そんなにせい[#「せい」に傍点]たっていやよ貞《さあ》ちゃんは。せっかち[#「せっかち」に傍点]な人ねえ」
 そう穏かにたしなめるらしい愛子の声が階下でした。
 「でもそんなにおしゃれ[#「おしゃれ」に傍点]しなくったっていいわ。おねえ様が早くっておっしゃってよ」
 無遠慮にこういう貞世の声もはっきり[#「はっきり」に傍点]聞こえた。葉子はほほえみながら岡を暖かく見やった。岡もさすがに笑いを宿《やど》した顔を上げたが、葉子と見かわすと急に頬《ほお》をぽっ[#「ぽっ」に傍点]と赤くして目を障子《しょうじ》のほうにそらしてしまった。手あぶりの縁《ふち》に置かれた手の先がかすかに震うのを葉子は見のがさなかった。
 やがて妹たち二人が葉子の後ろに現われた。葉子はすわったまま手を後ろに回して、
 「そんな人のお尻《しり》の所にすわって、もっとこっちにお出なさいな。……これが妹たちですの。どうかお友だちにしてくださいまし。お船で御一緒だっ
前へ 次へ
全47ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング