するには遠すぎるという理由のもとにそこをやめて、飯倉《いいくら》にある幽蘭《ゆうらん》女学校というのに通わせる事にした。
 二人《ふたり》が学校に通い出すようになると、倉地は朝から葉子の所で退校時間まで過ごすようになった。倉地の腹心の仲間たちもちょいちょい出入りした。ことに正井という男は倉地の影のように倉地のいる所には必ずいた。例の水先案内業者組合の設立について正井がいちばん働いているらしかった。正井という男は、一見放漫なように見えていて、剃刀《かみそり》のように目はしのきく人だった。その人が玄関からはいったら、そのあとに行って見ると履《は》き物《もの》は一つ残らずそろえてあって、傘《かさ》は傘で一隅《いちぐう》にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と集めてあった。葉子も及ばない素早《すばや》さで花びんの花のしおれかけたのや、茶や菓子の足《た》しなくなったのを見て取って、翌日は忘れずにそれを買いととのえて来た。無口のくせにどこかに愛矯《あいきょう》があるかと思うと、ばか笑いをしている最中に不思議に陰険な目つきをちらつかせたりした。葉子はその人を観察すればするほどその正体がわからないように思った。それは葉子をもどかしくさせるほどだった。時々葉子は倉地がこの男と組合設立の相談以外の秘密らしい話合いをしているのに感づいたが、それはどうしても明確に知る事ができなかった。倉地に聞いてみても、倉地は例ののんきな態度で事もなげに話題をそらしてしまった。
 葉子はしかしなんといっても自分が望みうる幸福の絶頂に近い所にいた。倉地を喜ばせる事が自分を喜ばせる事であり、自分を喜ばせる事が倉地を喜ばせる事である、そうした作為のない調和は葉子の心をしとやかに快活にした。何にでも自分がしようとさえ思えば適応しうる葉子に取っては、抜け目のない世話女房になるくらいの事はなんでもなかった。妹たちもこの姉を無二のものとして、姉のしてくれる事は一も二もなく正しいものと思うらしかった。始終葉子から継子《ままこ》あつかいにされている愛子さえ、葉子の前にはただ従順なしとやかな少女だった。愛子としても少なくとも一つはどうしてもその姉に感謝しなければならない事があった。それは年齢のお陰もある。愛子はことしで十六になっていた。しかし葉子がいなかったら、愛子はこれほど美しくはなれなかったに違いない。二三週間のうちに愛子は山から掘り出されたばかりのルビーと磨《みが》きをかけ上げたルビーとほどに変わっていた。小肥《こぶと》りで背たけは姉よりもはるかに低いが、ぴち[#「ぴち」に傍点]ぴちと締まった肉づきと、抜け上がるほど白い艶《つや》のある皮膚とはいい均整を保って、短くはあるが類のないほど肉感的な手足の指の先細《さきぼそ》な所に利点を見せていた。むっくり[#「むっくり」に傍点]と牛乳色の皮膚に包まれた地蔵肩《じぞうがた》の上に据《す》えられたその顔はまた葉子の苦心に十二|分《ぶん》に酬《むく》いるものだった。葉子がえりぎわを剃《そ》ってやるとそこに新しい美が生まれ出た。髪を自分の意匠どおりに束ねてやるとそこに新しい蠱惑《こわく》がわき上がった。葉子は愛子を美しくする事に、成功した作品に対する芸術家と同様の誇りと喜びとを感じた。暗い所にいて明るいほうに振り向いた時などの愛子の卵形の顔形は美の神ビーナスをさえ妬《ねた》ます事ができたろう。顔の輪郭と、やや額ぎわを狭くするまでに厚く生《は》えそろった黒漆《こくしつ》の髪とは闇《やみ》の中に溶けこむようにぼかされて、前からのみ来る光線のために鼻筋は、ギリシャ人のそれに見るような、規則正しく細長い前面の平面をきわ立たせ、潤いきった大きな二つのひとみと、締まって厚い上下の口びるとは、皮膚を切り破って現われ出た二|対《つい》の魂のようになまなましい感じで見る人を打った。愛子はそうした時にいちばん美しいように、闇《やみ》の中にさびしくひとりでいて、その多恨な目でじっ[#uじっ」に傍点]と明るみを見つめているような少女だった。
 葉子は倉地が葉子のためにして見せた大きな英断に酬《むく》いるために、定子を自分の愛撫《あいぶ》の胸から裂いて捨てようと思いきわめながらも、どうしてもそれができないでいた。あれから一度も訪れこそしないが、時おり金を送ってやる事と、乳母《うば》から安否を知らさせる事だけは続けていた。乳母の手紙はいつでも恨みつらみで満たされていた。日本に帰って来てくださったかいがどこにある。親がなくて子が子らしく育つものか育たぬものかちょっとでも考えてみてもらいたい。乳母もだんだん年を取って行く身だ。麻疹《はしか》にかかって定子は毎日毎日ママの名を呼び続けている、その声が葉子の耳に聞こえないのが不思議だ。こんな事が消息のたびごとにたどたどしく書き連ねてあった。葉子はいても立ってもたまらないような事があった。けれどもそんな時には倉地の事を思った。ちょっと倉地の事を思っただけで、歯をくいしばりながらも、苔香園《たいこうえん》の表門からそっ[#「そっ」に傍点]と家を抜け出る誘惑に打ち勝った。
 倉地のほうから手紙を出すのは忘れたと見えて、岡はまだ訪れては来《こ》なかった。木村にあれほど切《せつ》な心持ちを書き送ったくらいだから、葉子の住所さえわかれば尋ねて来ないはずはないのだが、倉地にはそんな事はもう念頭になくなってしまったらしい。だれも来るなと願っていた葉子もこのごろになってみると、ふと岡の事などを思い出す事があった。横浜を立つ時に葉子にかじり付いて離れなかった青年を思い出す事などもあった。しかしこういう事があるたびごとに倉地の心の動きかたをもきっと推察した。そしてはいつでも願《がん》をかけるようにそんな事は夢にも思い出すまいと心に誓った。
 倉地がいっこうに無頓着《むとんじゃく》なので、葉子はまだ籍を移してはいなかった。もっとも倉地の先妻がはたして籍を抜いているかどうかも知らなかった。それを知ろうと求めるのは葉子の誇りが許さなかった。すべてそういう習慣を天《てん》から考えの中に入れていない倉地に対して今さらそんな形式事を迫るのは、自分の度胸を見すかされるという上からもつらかった。その誇りという心持ちも、度胸を見すかされるという恐れも、ほんとうをいうと葉子がどこまでも倉地に対してひけ目になっているのを語るに過ぎないとは葉子自身存分に知りきっているくせに、それを勝手に踏みにじって、自分の思うとおりを倉地にしてのけさす不敵さを持つ事はどうしてもできなかった。それなのに葉子はややともすると倉地の先妻の事が気になった。倉地の下宿のほうに遊びに行く時でも、その近所で人妻らしい人の往来するのを見かけると葉子の目は知らず知らず熟視のためにかがやいた。一度も顔を合わせないが、わずかな時間の写真の記憶から、きっとその人を見分けてみせると葉子は自信していた。葉子はどこを歩いてもかつてそんな人を見かけた事はなかった。それがまた妙に裏切られているような感じを与える事もあった。
 航海の初期における批点の打ちどころのないような健康の意識はその後葉子にはもう帰って来なかった。寒気が募るにつれて下腹部が鈍痛を覚えるばかりでなく、腰の後ろのほうに冷たい石でも釣《つ》り下げてあるような、重苦しい気分を感ずるようになった。日本に帰ってから足の冷え出すのも知った。血管の中には血の代わりに文火《とろび》でも流れているのではないかと思うくらい寒気に対して平気だった葉子が、床の中で倉地に足のひどく冷えるのを注意されたりすると不思議に思った。肩の凝るのは幼少の時からの痼疾《こしつ》だったがそれが近ごろになってことさら激しくなった。葉子はちょい[#「ちょい」に傍点]ちょい按摩《あんま》を呼んだりした。腹部の痛みが月経と関係があるのを気づいて、葉子は婦人病であるに相違ないとは思った。しかしそうでもないと思うような事が葉子の胸の中にはあった。もしや懐妊では……葉子は喜びに胸をおどらせてそう思ってもみた。牝豚《めぶた》のように幾人も子を生むのはとても耐えられない。しかし一人《ひとり》はどうあっても生みたいものだと葉子は祈るように願っていたのだ。定子の事から考えると自分には案外子運があるのかもしれないとも思った。しかし前の懐妊の経験と今度の徴候とはいろいろな点で全く違ったものだった。
 一月の末になって木村からははたして金を送って来た。葉子は倉地が潤沢につけ届けする金よりもこの金を使う事にむしろ心安さを覚えた。葉子はすぐ思いきった散財をしてみたい誘惑に駆り立てられた。
 ある日当たりのいい日に倉地とさし向かいで酒を飲んでいると苔香園《たいこうえん》のほうから藪《やぶ》うぐいすのなく声が聞こえた。葉子は軽く酒ほてりのした顔をあげて倉地を見やりながら、耳ではうぐいすのなき続けるのを注意した。
 「春が来ますわ」
 「早いもんだな」
 「どこかへ行きましょうか」
 「まだ寒いよ」
 「そうねえ……組合のほうは」
 「うむあれが片づいたら出かけようわい。いいかげんくさ[#「くさ」に傍点]くさしおった」
 そういって倉地はさもめんどうそうに杯の酒を一煽《ひとあお》りにあおりつけた。
 葉子はすぐその仕事がうまく運んでいないのを感づいた。それにしてもあの毎月の多額な金はどこから来るのだろう。そうちらっ[#「ちらっ」に傍点]と思いながら素早《すばや》く話を他にそらした。

    三二

 それは二月初旬のある日の昼ごろだった。からっ[#「からっ」に傍点]と晴れた朝の天気に引きかえて、朝日がしばらく東向きの窓にさす間もなく、空は薄曇りに曇って西風がゴウゴウと杉森《すぎもり》にあたって物すごい音を立て始めた。どこにか春をほのめかすような日が来たりしたあとなので、ことさら世の中が暗澹《あんたん》と見えた。雪でもまくしかけて来そうに底冷えがするので、葉子は茶の間に置きごたつを持ち出して、倉地の着がえをそれにかけたりした。土曜だから妹たちは早びけだと知りつつも倉地はものぐさそうに外出のしたくにかからないで、どてらを引っかけたまま火鉢《ひばち》のそばにうずくまっていた。葉子は食器を台所のほうに運びながら、来たり行ったりするついでに倉地と物をいった。台所に行った葉子に茶の間から大きな声で倉地がいいかけた。
 「おいお葉(倉地はいつのまにか葉子をこう呼ぶようになっていた)おれはきょうは二人《ふたり》に対面して、これから勝手に出はいりのできるようにするぞ」
 葉子は布巾《ふきん》を持って台所のほうからいそいそと茶の間に帰って来た。
 「なんだってまたきょう……」
 そういってつき膝《ひざ》をしながらちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台をぬぐった。
 「いつまでもこうしているが気づまりでようないからよ」
 「そうねえ」
 葉子はそのままそこにすわり込んで布巾《ふきん》をちゃぶ[#「ちゃぶ」に傍点]台にあてがったまま考えた。ほんとうはこれはとうに葉子のほうからいい出すべき事だったのだ。妹たちのいないすきか、寝てからの暇をうかがって、倉地と会うのは、始めのうちこそあいびき[#「あいびき」に傍点]のような興味を起こさせないでもないと思ったのと、葉子は自分の通って来たような道はどうしても妹たちには通らせたくないところから、自分の裏面をうかがわせまいという心持ちとで、今までついずるずるに妹たちを倉地に近づかせないで置いたのだったが、倉地の言葉を聞いてみると、そうしておくのが少し延び過ぎたと気がついた。また新しい局面を二人《ふたり》の間に開いて行くにもこれは悪い事ではない。葉子は決心した。
 「じゃきょうにしましょう。……それにしても着物だけは着かえていてくださいましな」
 「よし来た」
 と倉地はにこ[#「にこ」に傍点]にこしながらすぐ立ち上がった。葉子は倉地の後ろから着物を羽織《はお》っておいて羽がいに抱きながら、今さらに倉地の頑丈《がんじょう》な雄々しい体格を自分の胸に感じつつ、
 「それは二人ともいい子よ。かわいがってやってくださいましよ
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