だけから見てもこの孤独は破られなければならぬ。そしてそれは結局二人のためにいい事であるに相違ない。葉子はそう思った。
 ある晩それは倉地のほうから切り出された。長い夜を所在なさそうに読みもしない書物などをいじくっていたが、ふと思い出したように、
 「葉子。一つお前の妹たちを家に呼ぼうじゃないか……それからお前の子供っていうのもぜひここで育てたいもんだな。おれも急に三人まで子を失《な》くしたらさびしくってならんから……」
 飛び立つような思いを葉子はいち早くもみごとに胸の中で押ししずめてしまった。そうして、
 「そうですね」
 といかにも興味なげにいってゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]と倉地の顔を見た。
 「それよりあなたのお子さんを一人《ひとり》なり二人なり来てもらったらいかが。……わたし奥さんの事を思うといつでも泣きます(葉子はそういいながらもう涙をいっぱいに目にためていた)。けれどわたしは生きてる間は奥さんを呼び戻《もど》して上げてくださいなんて……そんな偽善者じみた事はいいません。わたしにはそんな心持ちはみじんもありませんもの。お気の毒なという事と、二人がこうなってしまったという事とは別物ですものねえ。せめては奥さんがわたしを詛《のろ》い殺そうとでもしてくだされば少しは気持ちがいいんだけれども、しとやかにしてお里に帰っていらっしゃると思うとつい身につまされてしまいます。だからといってわたしは自分が命をなげ出して築き上げた幸福を人に上げる気にはなれません。あなたがわたしをお捨てになるまではね、喜んでわたしはわたしを通すんです。……けれどもお子さんならわたしほんとうにちっとも[#「ちっとも」に傍点]構いはしない事よ。どうお呼び寄せになっては?」
 「ばかな。今さらそんな事ができてたまるか」倉地はかんで捨てるようにそういって横を向いてしまった。ほんとうをいうと倉地の妻の事をいった時には葉子は心の中をそのままいっていたのだ。その娘たちの事をいった時にはまざまざとした虚言《うそ》をついていたのだ。葉子の熱意は倉地の妻をにおわせるものはすべて憎かった。倉地の家のほうから持ち運ばれた調度すら憎かった。ましてその子が呪《のろ》わしくなくってどうしよう。葉子は単に倉地の心を引いてみたいばかりに怖々《こわごわ》ながら心にもない事をいってみたのだった。倉地のかんで捨てるような言葉は葉子を満足させた。同時に少し強すぎるような語調が懸念でもあった。倉地の心底をすっかり[#「すっかり」に傍点]見て取ったという自信を得たつもりでいながら、葉子の心は何か機《おり》につけてこうぐらついた。
 「わたしがぜひというんだから構わないじゃありませんか」
 「そんな負け惜しみをいわんで、妹たちなり定子なりを呼び寄せようや」
 そういって倉地は葉子の心をすみずみまで見抜いてるように、大きく葉子を包みこむように見やりながら、いつもの少し渋いような顔をしてほほえんだ。
 葉子はいい潮時を見計らって巧みにも不承不承《ふしょうぶしょう》そうに倉地の言葉に折れた。そして田島の塾《じゅく》からいよいよ妹たち二人《ふたり》を呼び寄せる事にした。同時に倉地はその近所に下宿するのを余儀なくされた。それは葉子が倉地との関係をまだ妹たちに打ち明けてなかったからだ。それはもう少し先に適当な時機を見計らって知らせるほうがいいという葉子の意見だった。倉地にもそれに不服はなかった。そして朝から晩まで一緒に寝起きをするよりは、離れた所に住んでいて、気の向いた時にあうほうがどれほど二人の間の戯れの心を満足させるかしれないのを、二人はしばらくの間の言葉どおりの同棲《どうせい》の結果として認めていた。倉地は生活をささえて行く上にも必要であるし、不休の活動力を放射するにも必要なので解職になって以来何か事業の事を時々思いふけっているようだったが、いよいよ計画が立ったのでそれに着手するためには、当座の所、人々の出入りに葉子の顔を見られない所で事務を取るのを便宜としたらしかった。そのためにも倉地がしばらくなりとも別居する必要があった。
 葉子の立場はだんだんと固まって来た。十二月の末に試験が済むと、妹たちは田島の塾《じゅく》から少しばかりの荷物を持って帰って来た。ことに貞世の喜びといってはなかった。二人は葉子の部屋《へや》だった六畳の腰窓《こしまど》の前に小さな二つの机を並べた。今までなんとなく遠慮がちだったつやも生まれ代わったように快活なはきはきした少女になった。ただ愛子だけは少しもうれしさを見せないで、ただ慎み深く素直《すなお》だった。
 「愛ねえさんうれしいわねえ」
 貞世は勝ち誇るもののごとく、縁側の柱によりかかってじっと冬枯れの庭を見つめている姉の肩に手をかけながらより添った。愛子は一所《ひとところ》をまたたきもしないで見つめながら、
 「えゝ」
 と歯切れ悪く答えるのだった。貞世はじれったそうに愛子の肩をゆすりながら、
 「でもちっとも[#「ちっとも」に傍点]うれしそうじゃないわ」
 と責めるようにいった。
 「でもうれしいんですもの」
 愛子の答えは冷然としていた。十畳の座敷に持ち込まれた行李《こうり》を明けて、よごれ物などを選《よ》り分けていた葉子はその様子をちらと見たばかりで腹が立った。しかし来たばかりのものをたしなめるでもないと思って虫を殺した。
 「なんて静かな所でしょう。塾《じゅく》よりもきっと静かよ。でもこんなに森があっちゃ夜になったらさびしいわねえ。わたしひとりでお便所《はばかり》に行けるかしらん。……愛ねえさん、そら、あすこに木戸があるわ。きっと隣のお庭に行けるのよ。あの庭に行ってもいいのおねえ様。だれのお家《うち》むこうは?……」
 貞世は目にはいるものはどれも珍しいというようにひとりでしゃべっては、葉子にとも愛子にともなく質問を連発した。そこが薔薇《ばら》の花園であるのを葉子から聞かされると、貞世は愛子を誘って庭|下駄《げた》をつっかけた。愛子も貞世に続いてそっちのほうに出かける様子だった。
 その物音を聞くと葉子はもう我慢ができなかった。
 「愛さんお待ち。お前さん方《がた》のものがまだ片づいてはいませんよ。遊び回るのは始末をしてからになさいな」
 愛子は従順に姉の言葉に従って、その美しい目を伏せながら座敷の中にはいって来た。
 それでもその夜の夕食は珍しくにぎやかだった。貞世がはしゃぎきって、胸いっぱいのものを前後も連絡もなくしゃべり[#「しゃべり」に傍点]立てるので愛子さえも思わずにやり[#「にやり」に傍点]と笑ったり、自分の事を容赦なくいわれたりすると恥ずかしそうに顔を赤らめたりした。
 貞世はうれしさに疲れ果てて夜の浅いうちに寝床にはいった。明るい電燈の下に葉子と愛子と向かい合うと、久しくあわないでいた骨肉《こつにく》の人々の間にのみ感ぜられる淡い心置きを感じた。葉子は愛子にだけは倉地の事を少し具体的に知らしておくほうがいいと思って、話のきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に少し言葉を改めた。
 「まだあなた方《がた》にお引き合わせがしてないけれども倉地っていう方《かた》ね、絵島丸の事務長の……(愛子は従順に落ち着いてうなずいて見せた)……あの方が今木村さんに成りかわってわたしの世話を見ていてくださるのよ。木村さんからお頼まれになったものだから、迷惑そうにもなく、こんないい家まで見つけてくださったの。木村さんは米国でいろいろ事業を企てていらっしゃるんだけれども、どうもお仕事がうまく行かないで、お金が注《つ》ぎ込みにばかりなっていて、とてもこっちには送ってくだされないの、わたしの家はあなたも知ってのとおりでしょう。どうしてもしばらくの間は御迷惑でも倉地さんに万事を見ていただかなければならないのだから、あなたもそのつもりでいてちょうだいよ。ちょく[#「ちょく」に傍点]ちょくここにも来てくださるからね。それにつけて世間では何かくだらないうわさをしているに違いないが、愛さんの塾《じゅく》なんかではなんにもお聞きではなかったかい」
 「いゝえ、わたしたちに面と向かって何かおっしゃる方《かた》は一人《ひとり》もありませんわ。でも」
 と愛子は例の多恨らしい美しい目を上目《うわめ》に使って葉子をぬすみ見るようにしながら、
 「でも何しろあんな新聞が出たもんですから」
 「どんな新聞?」
 「あらおねえ様御存じなしなの。報正新報に続き物でおねえ様とその倉地という方の事が長く出ていましたのよ」
 「へーえ」
 葉子は自分の無知にあきれるような声を出してしまった。それは実際思いもかけぬというよりは、ありそうな事ではあるが今の今まで知らずにいた、それに葉子はあきれたのだった。しかしそれは愛子の目に自分を非常に無辜《むこ》らしく見せただけの利益はあった。さすがの愛子も驚いたらしい目をして姉の驚いた顔を見やった。
 「いつ?」
 「今月の始めごろでしたかしらん。だもんですから皆さん方《がた》の間ではたいへんな評判らしいんですの。今度も塾《じゅく》を出て来年から姉の所から通いますと田島先生に申し上げたら、先生も家の親類たちに手紙やなんかでだいぶお聞き合わせになったようですのよ。そしてきょうわたしたちを自分のお部屋《へや》にお呼びになって『わたしはお前さん方《がた》を塾から出したくはないけれども、塾に居続ける気はないか』とおっしゃるのよ。でもわたしたちはなんだか塾にいるのが肩身が……どうしてもいやになったもんですから、無理にお願いして帰って来てしまいましたの」
 愛子はふだんの無口に似ずこういう事を話す時にはちゃん[#「ちゃん」に傍点]と筋目が立っていた。葉子には愛子の沈んだような態度がすっかり[#「すっかり」に傍点]読めた。葉子の憤怒は見る見るその血相を変えさせた。田川夫人という人はどこまで自分に対して執念を寄せようとするのだろう。それにしても夫人の友だちには五十川《いそがわ》という人もあるはずだ。もし五十川のおばさんがほんとうに自分の改悛《かいしゅん》を望んでいてくれるなら、その記事の中止なり訂正なりを、夫《おっと》田川の手を経てさせる事はできるはずなのだ。田島さんもなんとかしてくれようがありそうなものだ。そんな事を妹たちにいうくらいならなぜ自分に一言《ひとこと》忠告でもしてはくれないのだ(ここで葉子は帰朝以来妹たちを預かってもらった礼をしに行っていなかった自分を顧みた。しかし事情がそれを許さないのだろうぐらいは察してくれてもよさそうなものだと思った)それほど自分はもう世間から見くびられ除《の》け者にされているのだ。葉子は何かたたきつけるものでもあれば、そして世間というものが何か形を備えたものであれば、力の限り得物《えもの》をたたきつけてやりたかった。葉子は小刻みに震えながら、言葉だけはしとやかに、
 「古藤さんは」
 「たまにおたよりをくださいます」
 「あなた方《がた》も上げるの」
 「えゝたまに」
 「新聞の事を何かいって来たかい」
 「なんにも」
 「ここの番地は知らせて上げて」
 「いゝえ」
 「なぜ」
 「おねえ様の御迷惑になりはしないかと思って」
 この小娘はもうみんな知っている、と葉子は一種のおそれと警戒とをもって考えた。何事も心得ながら白々《しらじら》しく無邪気を装っているらしいこの妹が敵の間諜《かんちょう》のようにも思えた。
 「今夜はもうお休み。疲れたでしょう」
 葉子は冷然として、灯《ひ》の下にうつむいてきちん[#「きちん」に傍点]とすわっている妹を尻目《しりめ》にかけた。愛子はしとやかに頭を下げて従順に座を立って行った。
 その夜十一時ごろ倉地が下宿のほうから通《かよ》って来た。裏庭をぐるっと回って、毎夜戸じまりをせずにおく張り出しの六畳の間《ま》から上がって来る音が、じれながら鉄びんの湯気《ゆげ》を見ている葉子の神経にすぐ通じた。葉子はすぐ立ち上がって猫《ねこ》のように足音を盗みながら急いでそっちに行った。ちょうど敷居を上がろうとしていた倉地は暗い中
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