しろがった。
 「わたしが愛子の年ごろだったらこの人と心中《しんじゅう》ぐらいしているかもしれませんね。あんな心を持った人でも少し齢《とし》を取ると男はあなたみたいになっちまうのね」
 「あなたとはなんだ」
 「あなたみたいな悪党に」
 「それはお門《かど》が違うだろう」
 「違いませんとも……御同様にというほうがいいわ。私は心だけあなたに来て、からだはあの人にやるとほんとはよかったんだが……」
 「ばか! おれは心なんぞに用はないわい」
 「じゃ心のほうをあの人にやろうかしらん」
 「そうしてくれ。お前にはいくつも心があるはずだから、ありったけくれてしまえ」
 「でもかわいそうだからいちばん小さそうなのを一つだけあなたの分に残して置きましょうよ」
 そういって二人《ふたり》は笑った。倉地は返事を出すほうに岡のその手紙を仕分《しわ》けた。葉子はそれを見て軽い好奇心がわくのを覚えた。
 たくさんの中からは古藤のも出て来た。あて名は倉地だったけれども、その中からは木村から葉子に送られた分厚《ぶあつ》な手紙だけが封じられていた。それと同時な木村の手紙があとから二本まで現われ出た。葉子は倉地の見ている前で、そのすべてを読まないうちにずたずたに引き裂いてしまった。
 「ばかな事をするじゃない。読んで見るとおもしろかったに」
 葉子を占領しきった自信を誇りがな微笑に見せながら倉地はこういった。
 「読むとせっかくの昼御飯がおいしくなくなりますもの」
 そういって葉子は胸《むな》くその悪いような顔つきをして見せた。二人はまたたわいなく笑った。
 報正新報社からのもあった。それを見ると倉地は、一時はもみ消しをしようと思ってわたり[#「わたり」に傍点]をつけたりしたのでこんなものが来ているのだがもう用はなくなったので見るには及ばないといって、今度は倉地が封のままに引き裂いてしまった。葉子はふと自分が木村の手紙を裂いた心持ちを倉地のそれにあてはめてみたりした。しかしその疑問もすぐ過ぎ去ってしまった。
 やがて郵船会社からあてられた江戸川紙《えどがわし》の大きな封書が現われ出た。倉地はちょっと眉《まゆ》に皺《しわ》をよせて少し躊躇《ちゅうちょ》したふうだったが、それを葉子の手に渡して葉子に開封させようとした。何の気なしにそれを受け取った葉子は魔がさしたようにはっ[#「はっ」に傍点]と思った。とうとう倉地は自分のために……葉子は少し顔色を変えながら封を切って中から卒業証書のような紙を二枚と、書記が丁寧に書いたらしい書簡一封とを探り出した。
 はたしてそれは免職と、退職慰労との会社の辞令だった。手紙には退職慰労金の受け取り方《かた》に関する注意が事々しい行書《ぎょうしょ》で書いてあるのだった。葉子はなんといっていいかわからなかった。こんな恋の戯れの中からかほどな打撃を受けようとは夢にも思ってはいなかったのだ。倉地がここに着いた翌日葉子にいって聞かせた言葉はほんとうの事だったのか。これほどまでに倉地は真身《しんみ》になってくれていたのか。葉子は辞令を膝《ひざ》の上に置いたまま下を向いて黙ってしまった。目がしらの所が非常に熱い感じを得たと思った、鼻の奥が暖かくふさがって来た。泣いている場合ではないと思いながらも、葉子は泣かずにはいられないのを知り抜いていた。
 「ほんとうに私がわるうございました……許してくださいまし……(そういううちに葉子はもう泣き始めていた)……私はもう日陰の妾《めかけ》としてでも囲い者としてでもそれで充分に満足します。えゝ、それでほんとうにようござんす。わたしはうれしい……」
 倉地は今さら何をいうというような平気な顔で葉子の泣くのを見守っていたが、
 「妾《めかけ》も囲い者もあるかな、おれには女はお前|一人《ひとり》よりないんだからな。離縁状は横浜の土を踏むと一緒に嬶《かかあ》に向けてぶっ飛ばしてあるんだ」
 といってあぐらの膝《ひざ》で貧乏ゆすりをし始めた。さすがの葉子も息気《いき》をつめて、泣きやんで、あきれて倉地の顔を見た。
 「葉子、おれが木村以上にお前に深惚《ふかぼ》れしているといつか船の中でいって聞かせた事があったな。おれはこれでいざとなると心にもない事はいわないつもりだよ。双鶴館《そうかくかん》にいる間もおれは幾日も浜には行きはしなんだのだ。たいていは家内《かない》の親類たちとの談判で頭を悩ませられていたんだ。だがたいていけりがついたから、おれは少しばかり手回りの荷物だけ持って一足《ひとあし》先にここに越して来たのだ。……もうこれでええや。気がすっぱり[#「すっぱり」に傍点]したわ。これには双鶴館のお内儀《かみ》も驚きくさるだろうて……」
 会社の辞令ですっかり[#「すっかり」に傍点]倉地の心持ちをどん底《ぞこ》から感じ得た葉子は、この上倉地の妻の事を疑うべき力は消え果てていた。葉子の顔は涙にぬれひたりながらそれをふき取りもせず、倉地にすり寄って、その両肩に手をかけて、ぴったり[#「ぴったり」に傍点]と横顔を胸にあてた。夜となく昼となく思い悩みぬいた事がすでに解決されたので、葉子は喜んでも喜んでも喜び足りないように思った。自分も倉地と同様に胸の中がすっきり[#「すっきり」に傍点]すべきはずだった。けれどもそうは行かなかった。葉子はいつのまにか去られた倉地の妻その人のようなさびしい悲しい自分になっているのを発見した。
 倉地はいとしくってならぬようにエボニー色の雲のようにまっ黒にふっくり[#「ふっくり」に傍点]と乱れた葉子の髪の毛をやさしくなで回した。そしていつもに似ずしんみり[#「しんみり」に傍点]した調子になって、
 「とうとうおれも埋《うも》れ木《ぎ》になってしまった。これから地面の下で湿気を食いながら生きて行くよりほかにはない。――おれは負け惜しみをいうはきらいだ。こうしている今でもおれは家内や娘たちの事を思うと不憫《ふびん》に思うさ。それがない事ならおれは人間じゃないからな。……だがおれはこれでいい。満足この上なしだ。……自分ながらおれはばかになり腐ったらしいて」
 そういって葉子の首を固くかきいだいた。葉子は倉地の言葉を酒のように酔い心地《ごこち》にのみ込みながら「あなただけにそうはさせておきませんよ。わたしだって定子をみごとに捨てて見せますからね」と心の中で頭を下げつつ幾度もわびるように繰り返していた。それがまた自分で自分を泣かせる暗示となった。倉地の胸に横たえられた葉子の顔は、綿入れと襦袢《じゅばん》とを通して倉地の胸を暖かく侵すほど熱していた。倉地の目も珍しく曇っていた。そうして泣き入る葉子を大事そうにかかえたまま、倉地は上体を前後に揺すぶって、赤子《あかご》でも寝かしつけるようにした。戸外ではまた東京の初冬に特有な風が吹き出たらしく、杉森《すぎもり》がごう[#「ごう」に傍点]ごうと鳴りを立てて、枯れ葉が明るい障子に飛鳥のような影を見せながら、からからと音を立ててかわいた紙にぶつかった。それは埃立《ほこりだ》った、寒い東京の街路を思わせた。けれども部屋《へや》の中は暖かだった。葉子は部屋の中が暖かなのか寒いのかさえわからなかった。ただ自分の心が幸福にさびしさに燃えただれているのを知っていた。ただこのままで永遠は過ぎよかし。ただこのままで眠りのような死の淵《ふち》に陥れよかし。とうとう倉地の心と全く融《と》け合った自分の心を見いだした時、葉子の魂の願いは生きようという事よりも死のうという事だった。葉子はその悲しい願いの中に勇み甘んじておぼれて行った。

    二九

 この事があってからまたしばらくの間、倉地は葉子とただ二人《ふたり》の孤独に没頭する興味を新しくしたように見えた。そして葉子が家の中をいやが上にも整頓《せいとん》して、倉地のために住み心地《ごこち》のいい巣を造る間に、倉地は天気さえよければ庭に出て、葉子の逍遙《しょうよう》を楽しませるために精魂を尽くした。いつ苔香園《たいこうえん》との話をつけたものか、庭のすみに小さな木戸を作って、その花園の母屋《おもや》からずっ[#「ずっ」に傍点]と離れた小逕《こみち》に通いうる仕掛けをしたりした。二人は時々その木戸をぬけて目立たないように、広々とした苔香園の庭の中をさまよった。店の人たちは二人の心を察するように、なるべく二人から遠ざかるようにつとめてくれた。十二月の薔薇《ばら》の花園はさびしい廃園の姿を目の前に広げていた。可憐《かれん》な花を開いて可憐な匂《にお》いを放つくせにこの灌木《かんぼく》はどこか強い執着を持つ植木だった。寒さにも霜にもめげず、その枝の先にはまだ裏咲きの小さな花を咲かせようともがいているらしかった。種々な色のつぼみがおおかた葉の散り尽くしたこずえにまで残っていた。しかしその花べんは存分に霜にしいたげられて、黄色に変色して互いに膠着《こうちゃく》して、恵み深い日の目にあっても開きようがなくなっていた。そんな間を二人は静かな豊かな心でさまよった。風のない夕暮れなどには苔香園の表門を抜けて、紅葉館前のだらだら坂を東照宮《とうしょうぐう》のほうまで散歩するような事もあった。冬の夕方の事とて人通りはまれで二人がさまよう道としてはこの上もなかった。葉子はたまたま行きあう女の人たちの衣装を物珍しくながめやった。それがどんなに粗末な不格好な、いでたち[#「いでたち」に傍点]であろうとも、女は自分以外の女の服装をながめなければ満足できないものだと葉子は思いながらそれを倉地にいってみたりした。つやの髪から衣服までを毎日のように変えて装わしていた自分の心持ちにも葉子は新しい発見をしたように思った。ほんとうは二人だけの孤独に苦しみ始めたのは倉地だけではなかったのか。ある時にはそのさびしい坂道の上下から、立派な馬車や抱《かか》え車《ぐるま》が続々坂の中段を目ざして集まるのにあう事があった。坂の中段から紅葉館の下に当たる辺に導かれた広い道の奥からは、能楽《のうがく》のはやし[#「はやし」に傍点]の音がゆかしげにもれて来た。二人ヘ能楽堂での能の催しが終わりに近づいているのを知った。同時にそんな事を見たのでその日が日曜日である事にも気がついたくらい二人の生活は世間からかけ離れていた。
 こうした楽しい孤独もしかしながら永遠には続き得ない事を、続かしていてはならない事を鋭い葉子の神経は目ざとくさとって行った。ある日倉地が例のように庭に出て土いじりに精を出している間に、葉子は悪事でも働くような心持ちで、つやにいいつけて反古紙《ほごがみ》を集めた箱を自分の部屋《へや》に持って来《こ》さして、いつか読みもしないで破ってしまった木村からの手紙を選《え》り出そうとする自分を見いだしていた。いろいろな形に寸断された厚い西洋紙の断片が木村の書いた文句の断片をいくつもいくつも葉子の目にさらし出した。しばらくの間《あいだ》葉子は引きつけられるようにそういう紙片を手当たり次第に手に取り上げて読みふけった。半成の画《え》が美しいように断簡にはいい知れぬ情緒が見いだされた。その中に正しく織り込まれた葉子の過去が多少の力を集めて葉子に逼《せま》って来るようにさえ思え出した。葉子はわれにもなくその思い出に浸って行った。しかしそれは長い時が過ぎる前にくずれてしまった。葉子はすぐ現実に取って返していた。そしてすべての過去に嘔《は》き気《け》のような不快を感じて箱ごと台所に持って行くとつやに命じて裏庭でその全部を焼き捨てさせてしまった。
 しかしこの時も葉子は自分の心で倉地の心を思いやった。そしてそれがどうしてもいい徴候でない事を知った。そればかりではない。二人《ふたり》は霞《かすみ》を食って生きる仙人《せんにん》のようにしては生きていられないのだ。職業を失った倉地には、口にこそ出さないが、この問題は遠からず大きな問題として胸に忍ばせてあるのに違いない。事務長ぐらいの給料で余財ができているとは考えられない。まして倉地のように身分不相応な金づかいをしていた男にはなおの事だ。その点
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