ろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
 葉子はその夜倉地と部屋《へや》を別にして床についた。倉地は階上に、葉子は階下に。絵島丸以来|二人《ふたり》が離れて寝たのはその夜が始めてだった。倉地が真心《まごころ》をこめた様子でかれこれいうのを、葉子はすげなくはねつけて、せっかくとってあった二階の寝床を、女中に下に運ばしてしまった。横になりはしたがいつまでも寝つかれないで二時近くまで言葉どおりに輾転《てんてん》反側しつつ、繰り返し繰り返し倉地の夫婦関係を種々に妄想《もうそう》したり、自分にまくしかかって来る将来の運命をひたすらに黒く塗ってみたりしていた。それでも果ては頭もからだも疲れ果てて夢ばかりな眠りに陥ってしまった。
 うつらうつらとした眠りから、突然たとえようのないさびしさにひしひしと襲われて、――それはその時見た夢がそんな暗示になったのか、それとも感覚的な不満が目をさましたのかわからなかった――葉子は暗闇《くらやみ》の中に目を開いた。あらしのために電線に故障ができたと見えて、眠る時にはつけ放しにしておいた灯《ひ》がどこもここも消えているらしかった。あらしはしかしいつのまにか凪《な》ぎてしまって、あらしのあとの晩秋の夜はことさら静かだった。山内《さんない》いちめんの杉森《すぎもり》からは深山のような鬼気《きき》がしんしんと吐き出されるように思えた。こおろぎが隣の部屋のすみでかすれがすれに声を立てていた。わずかなしかも浅い睡眠には過ぎなかったけれども葉子の頭は暁|前《まえ》の冷えを感じて冴《さ》え冴《ざ》えと澄んでいた。葉子はまず自分がたった一人《ひとり》で寝ていた事を思った。倉地と関係がなかったころはいつでも一人で寝ていたのだが、よくもそんな事が長年にわたってできたものだったと自分ながら不思議に思われるくらい、それは今の葉子を物足らなく心さびしくさせていた。こうして静かな心になって考えると倉地の葉子に対する愛情が誠実であるのを疑うべき余地はさらになかった。日本に帰ってから幾日にもならないけれども、今まではとにかく倉地の熱意に少しも変わりが起こった所は見えなかった。いかに恋に目がふさがっても、葉子はそれを見きわめるくらいの冷静な眼力《がんりき》は持っていた。そんな事は充分に知り抜いているくせに、おぞましくも昨夜のようなばかなまねをしてしまった自分が自分ながら不思議なくらいだった。どんなに情に激した時でもたいていは自分を見失うような事はしないで通して来た葉子にはそれがひどく恥ずかしかった。船の中にいる時にヒステリーになったのではないかと疑った事が二三度ある――それがほんとうだったのではないかしらんとも思われた。そして夜着にかけた洗い立てのキャリコの裏の冷え冷えするのをふくよかな頤《おとがい》に感じながら心の中で独語《ひとりご》ちた。
 「何をわたしは考えていたんだろう。どうかして心が狂ってしまったんだ。こんな事はついぞない事だのに」
 そういいながら葉子は肩だけ起き直って、枕《まくら》もとの水を手さぐりでしたたか飲みほした。氷のように冷えきった水が喉《のど》もとを静かに流れ下って胃の腑《ふ》に広がるまではっきり[#「はっきり」に傍点]と感じられた。酒も飲まないのだけれども、酔後の水と同様に、胃の腑に味覚ができて舌の知らない味を味わい得たと思うほど快く感じた。それほど胸の中は熱を持っていたに違いない。けれども足のほうは反対に恐ろしく冷えを感じた。少しその位置を動かすと白さをそのままな寒い感じがシーツから逼《せま》って来るのだった。葉子はまたきびしく倉地の胸を思った。それは寒さと愛着とから葉子を追い立てて二階に走らせようとするほどだった。しかし葉子はすでにそれをじっ[#「じっ」に傍点]とこらえるだけの冷静さを回復していた。倉地の妻に対する処置は昨夜のようであっては手ぎわよくは成し遂げられぬ。もっと冷たい知恵に力を借りなければならぬ――こう思い定めながら暁の白《しら》むのを知らずにまた眠りに誘われて行った。
 翌日葉子はそれでも倉地より先に目をさまして手早く着がえをした。自分で板戸を繰りあけて見ると、縁先には、枯れた花壇の草や灌木《かんぼく》が風のために吹き乱された小庭があって、その先は、杉《すぎ》、松、その他の喬木《きょうぼく》の茂みを隔てて苔香園《たいこうえん》の手広い庭が見やられていた。きのうまでいた双鶴館《そうかくかん》の周囲とは全く違った、同じ東京の内とは思われないような静かな鄙《ひな》びた自然の姿が葉子の目の前には見渡された。まだ晴れきらない狭霧《さぎり》をこめた空気を通して、杉の葉越しにさしこむ朝の日の光が、雨にしっとり[#「しっとり」に傍点]と潤った庭の黒土の上に、まっすぐな杉の幹を棒縞《
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