たまま涙のひまから切れ切れに叫ぶように声を放った。
 「捨てないでちょうだいとはいいません……捨てるなら捨ててくださってもようござんす……その代わり……その代わり……はっきり[#「はっきり」に傍点]おっしゃってください、ね……わたしはただ引きずられて行くのがいやなんです……」
 「何をいってるんだお前は……」
 倉地のかんでふくめるような声が耳もと近く葉子にこうささやいた。
 「それだけは……それだけは誓ってください……ごまかすのはわたしはいや……いやです」
 「何を……何をごまかすかい」
 「そんな言葉がわたしはきらいです」
 「葉子!」
 倉地はもう熱情に燃えていた。しかしそれはいつでも葉子を抱いた時に倉地に起こる野獣のような熱情とは少し違っていた。そこにはやさしく女の心をいたわるような影が見えた。葉子はそれをうれしくも思い、物足らなくも思った。
 葉子の心の中は倉地の妻の事をいい出そうとする熱意でいっぱいになっていた。その妻が貞淑な美しい女であると思えば思うほど、その人が二人《ふたり》の間にはさまっているのが呪《のろ》わしかった。たとい捨てられるまでも一度は倉地の心をその女から根こそぎ奪い取らなければ堪念《たんねん》ができないようなひたむきに狂暴な欲念が胸の中でははち切れそうに煮えくり返っていた。けれども葉子はどうしてもそれを口の端《は》に上《のぼ》せる事はできなかった。その瞬間に自分に対する誇りが塵芥《ちりあくた》のように踏みにじられるのを感じたからだ。葉子は自分ながら自分の心がじれったかった。倉地のほうから一言《ひとこと》もそれをいわないのが恨めしかった。倉地はそんな事はいうにも足らないと思っているのかもしれないが……いゝえそんな事はない、そんな事のあろうはずはない。倉地はやはり二股《ふたまた》かけて自分を愛しているのだ。男の心にはそんなみだらな未練があるはずだ。男の心とはいうまい、自分も倉地に出あうまでは、異性に対する自分の愛を勝手に三つにも四つにも裂いてみる事ができたのだ。……葉子はここにも自分の暗い過去の経験のために責めさいなまれた。進んで恋のとりことなったものが当然陥らなければならないたとえようのないほど暗く深い疑惑はあとからあとから口実を作って葉子を襲うのだった。葉子の胸は言葉どおりに張り裂けようとしていた。
 しかし葉子の心が傷《いた》めば傷《いた》むほど倉地の心は熱して見えた。倉地はどうして葉子がこんなにきげんを悪くしているのかを思い迷っている様子だった。倉地はやがてしいて葉子を自分の胸から引き放してその顔を強く見守った。
 「何をそう理屈もなく泣いているのだ……お前はおれを疑《うたぐ》っているな」
 葉子は「疑わないでいられますか」と答えようとしたが、どうしてもそれは自分の面目《めんぼく》にかけて口には出せなかった。葉子は涙に解けて漂うような目を恨めしげに大きく開いて黙って倉地を見返した。
 「きょうおれはとうとう本店から呼び出されたんだった。船の中での事をそれとなく聞きただそうとしおったから、おれは残らずいってのけたよ。新聞におれたちの事が出た時でもが、あわてるがものはないと思っとったんだ。どうせいつかは知れる事だ。知れるほどなら、大っぴらで早いがいいくらいのものだ。近いうちに会社のほうは首になろうが、おれは、葉子、それが満足なんだぞ。自分で自分の面《つら》に泥《どろ》を塗って喜んでるおれがばかに見えような」
 そういってから倉地は激しい力で再び葉子を自分の胸に引き寄せようとした。
 葉子はしかしそうはさせなかった。素早《すばや》く倉地の膝《ひざ》から飛びのいて畳の上に頬《ほお》を伏せた。倉地の言葉をそのまま信じて、素直《すなお》にうれしがって、心を涙に溶いて泣きたかった。しかし万一倉地の言葉がその場のがれの勝手な造り事だったら……なぜ倉地は自分の妻や子供たちの事をいっては聞かせてくれないのだ。葉子はわけのわからない涙を泣くより術《すべ》がなかった。葉子は突《つ》っ伏《ぷ》したままでさめざめと泣き出した。
 戸外のあらしは気勢を加えて、物すさまじくふけて行く夜を荒れ狂った。
 「おれのいうた事がわからんならまあ見とるがいいさ。おれはくどい事は好《す》かんからな」
 そういいながら倉地は自分を抑制しようとするようにしいて落ち着いて、葉巻を取り上げて煙草盆《たばこぼん》を引き寄せた。
 葉子は心の中で自分の態度が倉地の気をまずくしているのをはらはらしながら思いやった。気をまずくするだけでもそれだけ倉地から離れそうなのがこの上なくつらかった。しかし自分で自分をどうする事もできなかった。
 葉子はあらしの中にわれとわが身をさいなみながらさめざめと泣き続けた。

    二七

 「何をわたしは考えていたんだ
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