すると内所《ないしょ》で鼻をすすっていた。
 そこには葉山で木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、30−15]と同棲《どうせい》していた時に使った調度が今だに古びを帯びて保存されたりしていた。定子をそばにおいてそんなものを見るにつけ、少し感傷的になった葉子の心は涙に動こうとした。けれどもその日はなんといっても近ごろ覚えないほどしみじみとした楽しさだった。何事にでも器用な葉子は不足がちな台所道具を巧みに利用して、西洋風な料理と菓子とを三品《みしな》ほど作った。定子はすっかり[#「すっかり」に傍点]喜んでしまって、小さな手足をまめまめしく働かしながら、「はいはい」といって庖丁《ほうちょう》をあっちに運んだり、皿《さら》をこっちに運んだりした。三人は楽しく昼飯の卓についた。そして夕方まで水入らずにゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]暮らした。
 その夜は妹たちが学校から来るはずになっていたので葉子は婆《ばあ》やの勧める晩飯も断わって夕方その家を出た。入り口の所につくねん[#「つくねん」に傍点]と立って姿やに両肩をささえられながら姿の消えるまで葉子を見送った定子の姿がいつまでもいつまでも葉子の心から離れなかった。夕闇《ゆうやみ》にまぎれた幌《ほろ》の中で葉子は幾度かハンケチを目にあてた。
 宿に着くころには葉子の心持ちは変わっていた。玄関にはいって見ると、女学校でなければ履《は》かれないような安|下駄《げた》のきたなくなったのが、お客や女中たちの気取った履《は》き物《もの》の中にまじって脱いであるのを見て、もう妹たちが来て待っているのを知った。さっそくに出迎えに出た女将《おかみ》に、今夜は倉地が帰って来たら他所《よそ》の部屋《へや》で寝るように用意をしておいてもらいたいと頼んで、静々《しずしず》と二階へ上がって行った。
 襖《ふすま》をあけて見ると二人の姉妹はぴったり[#「ぴったり」に傍点]とくっつき[#「くっつき」に傍点]合って泣いていた。人の足音を姉のそれだとは充分に知りながら、愛子のほうは泣き顔を見せるのが気まりが悪いふうで、振り向きもせずに一入《ひとしお》うなだれてしまったが、貞世のほうは葉子の姿を一目見るなり、はねるように立ち上がって激しく泣きながら葉子のふところに飛びこんで来た。葉子も思わず飛び立つように貞世を迎えて、長火鉢《ながひばち》のかたわらの自分の座にすわると、貞世はその膝《ひざ》に突っ伏してすすり上げすすり上げ可憐《かれん》な背中に波を打たした。これほどまでに自分の帰りを待ちわびてもい、喜んでもくれるのかと思うと、骨肉《こつにく》の愛着からも、妹だけは少なくとも自分の掌握の中にあるとの満足からも、葉子はこの上なくうれしかった。しかし火鉢《ひばち》からはるか離れた向こう側に、うやうやしく居ずまいを正《ただ》して、愛子がひそひそと泣きながら、規則正しくおじぎをするのを見ると葉子はすぐ癪《しゃく》にさわった。どうして自分はこの妹に対して優しくする事ができないのだろうとは思いつつも、葉子は愛子の所作《しょさ》を見ると一々気にさわらないではいられないのだ。葉子の目は意地わるく剣《けん》を持って冷ややかに小柄で堅肥《かたぶと》りな愛子を激しく見すえた。
 「会いたてからつけ[#「つけ」に傍点]つけいうのもなんだけれども、なんですねえそのおじぎのしかたは、他人行儀らしい。もっと打ち解けてくれたっていいじゃないの」
 というと愛子は当惑したように黙ったまま目を上げて葉子を見た。その目はしかし恐れても恨んでもいるらしくはなかった。小羊のような、まつ毛の長い、形のいい大きな目が、涙に美しくぬれて夕月のようにぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]とならんでいた。悲しい目つきのようだけれども、悲しいというのでもない。多恨な目だ。多情な目でさえあるかもしれない。そう皮肉な批評家らしく葉子は愛子の目を見て不快に思った。大多数の男はあんな目で見られると、この上なく詩的な霊的な一瞥《いちべつ》を受け取ったようにも思うのだろう。そんな事さえ素早《すばや》く考えの中につけ加えた。貞世が広い帯をして来ているのに、愛子が少し古びた袴《はかま》をはいているのさえさげすまれた。
 「そんな事はどうでもようござんすわ。さ、お夕飯にしましょうね」
 葉子はやがて自分の妄念《もうねん》をかき払うようにこういって、女中を呼んだ。
 貞世は寵児《ペット》らしくすっかりはしゃぎきっていた。二人《ふたり》が古藤につれられて始めて田島《たじま》の塾《じゅく》に行った時の様子から、田島先生が非常に二人《ふたり》をかわいがってくれる事から、部屋《へや》の事、食物の事、さすがに女の子らしく細かい事まで自分|一人《ひとり》の興に乗じて談《かた》り続けた。愛子も言葉少なに要領
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