やだといった。
「そういわずとも少し召し上がれ、ね、せっかくねえさんが加減したんだから。第一食べないでいては弱ってしまいますよ」
そう促してみても貞世は金輪際《こんりんざい》あとを食べようとはしなかった。
突然自分でも思いもよらない憤怒が葉子に襲いかかった。自分がこれほど骨を折ってしてやったのに、義理にももう少しは食べてよさそうなものだ。なんというわがままな子だろう(葉子は貞世が味覚を回復していて、流動食では満足しなくなったのを少しも考えに入れなかった)。
そうなるともう葉子は自分を統御《とうぎょ》する力を失ってしまっていた。血管の中の血が一時にかっ[#「かっ」に傍点]と燃え立って、それが心臓に、そして心臓から頭に衝《つ》き進んで、頭蓋骨《ずがいこつ》はばり[#「ばり」に傍点]ばりと音を立てて破《わ》れそうだった。日ごろあれほどかわいがってやっているのに、……憎さは一倍だった。貞世を見つめているうちに、そのやせきった細首に鍬形《くわがた》にした両手をかけて、一思いにしめつけて、苦しみもがく様子を見て、「そら見るがいい」といい捨ててやりたい衝動がむずむずとわいて来た。その頭のまわりにあてがわるべき両手の指は思わず知らず熊手《くまで》のように折れ曲がって、はげしい力のために細かく震えた。葉子は凶器に変わったようなその手を人に見られるのが恐ろしかったので、茶わんと匙《さじ》とを食卓にかえして、前だれの下に隠してしまった。上《うわ》まぶたの一文字になった目をきりっ[#「きりっ」に傍点]と据えてはた[#「はた」に傍点]と貞世をにらみつけた。葉子の目には貞世のほかにその部屋《へや》のものは倉地から愛子に至るまですっかり[#「すっかり」に傍点]見えなくなってしまっていた。
「食べないかい」
「食べないかい。食べなければ云々《うんぬん》」と小言《こごと》をいって貞世を責めるはずだったが、初句を出しただけで、自分の声のあまりに激しい震えように言葉を切ってしまった。
「食べない……食べない……御飯でなくってはいやあだあ」
葉子の声の下からすぐこうしたわがままな貞世のすねにすねた声が聞こえたと葉子は思った。まっ黒な血潮がどっ[#「どっ」に傍点]と心臓を破って脳天に衝《つ》き進んだと思った。目の前で貞世の顔が三つにも四つにもなって泳いだ。そのあとには色も声もしびれ果ててしまったような暗黒の忘我が来た。
「おねえ様……おねえ様ひどい……いやあ……」
「葉ちゃん……あぶない……」
貞世と倉地の声とがもつれ合って、遠い所からのように聞こえて来るのを、葉子はだれかが何か貞世に乱暴をしているのだなと思ったり、この勢いで行かなければ貞世は殺せやしないと思ったりしていた。いつのまにか葉子はただ一筋に貞世を殺そうとばかりあせっていたのだ。葉子は闇黒《あんこく》の中で何か自分に逆らう力と根《こん》限りあらそいながら、物すごいほどの力をふりしぼってたたかっているらしかった。何がなんだかわからなかった。その混乱の中に、あるいは今自分は倉地の喉笛《のどぶえ》に針のようになった自分の十本の爪《つめ》を立てて、ねじりもがきながら争っているのではないかとも思った。それもやがて夢のようだった。遠ざかりながら人の声とも獣《けもの》の声とも知れぬ音響がかすかに耳に残って、胸の所にさし込んで来る痛みを吐き気のように感じた次の瞬間には、葉子は昏々《こんこん》として熱も光も声もない物すさまじい暗黒の中にまっさかさまに浸って行った。
ふと葉子は擽《くす》むるようなものを耳の所に感じた。それが音響だとわかるまでにはどのくらいの時間が経過したかしれない。とにかく葉子はがや[#「がや」に傍点]がやという声をだんだんとはっきり[#「はっきり」に傍点]聞くようになった。そしてぽっかり[#「ぽっかり」に傍点]視力を回復した。見ると葉子は依然として貞世の病室にいるのだった。愛子が後ろ向きになって寝台の上にいる貞世を介抱していた。自分は……自分はと葉子は始めて自分を見回そうとしたが、からだは自由を失っていた。そこには倉地がいて葉子の首根っこに腕を回して、膝《ひざ》の上に一方の足を乗せて、しっかりと抱きすくめていた。その足の重さが痛いほど感じられ出した。やっぱり自分は倉地を死に神のもとへ追いこくろうとしていたのだなと思った。そこには白衣を着た医者も看護婦も見え出した。
葉子はそれだけの事を見ると急に気のゆるむのを覚えた。そして涙がぼろぼろと出てしかたがなくなった。おかしな……どうしてこう涙が出るのだろうと怪しむうちに、やる瀬ない悲哀がどっ[#「どっ」に傍点]とこみ上げて来た。底のないようなさびしい悲哀……そのうちに葉子は悲哀とも睡《ねむ》さとも区別のできない重い力に圧せられてまた知覚か
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