動をすぐ疳癪《かんしゃく》の種《たね》にする葉子も、その朝ばかりはかわいそうなくらいに思っていた。
 「愛さんお喜び、貞《さあ》ちゃんの熱がとうとう七度台に下がってよ。ちょっと起きて来てごらん、それはいい顔をして寝ているから……静かにね」
 「静かにね」といいながら葉子の声は妙にはずんで高かった。愛子は柔順に起き上がってそっ[#「そっ」に傍点]と蚊帳をくぐって出て、前を合わせながら寝台のそばに来た。
 「ね?」
 葉子は笑《え》みかまけて愛子にこう呼びかけた。
 「でもなんだか、だいぶに蒼白《あおじろ》く見えますわね」
 と愛子が静かにいうのを葉子はせわしく引ったくって、
 「それは電燈の風呂敷《ふろしき》のせいだわ……それに熱が取れれば病人はみんな一度はかえって悪くなったように見えるものなのよ。ほんとうによかった。あなたも親身《しんみ》に世話してやったからよ」
 そういって葉子は右手で愛子の肩をやさしく抱いた。そんな事を愛子にしたのは葉子としては始めてだった。愛子は恐れをなしたように身をすぼめた。
 葉子はなんとなくじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられなかった。子供らしく、早く貞世が目をさませばいいと思った。そうしたら熱の下がったのを知らせて喜ばせてやるのにと思った。しかしさすがにその小さな眠りを揺《ゆ》りさます事はし得ないで、しきりと部屋《へや》の中を片づけ始めた。愛子が注意の上に注意をしてこそ[#「こそ」に傍点]との音もさせまいと気をつかっているのに、葉子がわざとするかとも思われるほど騒々《そうぞう》しく働くさまは、日ごろとはまるで反対だった。愛子は時々不思議そうな目つきをしてそっ[#「そっ」に傍点]と葉子の挙動を注意した。
 そのうちに夜がどんどん明け離れて、電灯の消えた瞬間はちょっと部屋の中が暗くなったが、夏の朝らしく見る見るうちに白い光が窓から容赦なく流れ込んだ。昼になってからの暑さを予想させるような涼しさが青葉の軽いにおいと共に部屋の中にみちあふれた。愛子の着かえた大柄《おおがら》な白の飛白《かすり》も、赤いメリンスの帯も、葉子の目を清々《すがすが》しく刺激した。
 葉子は自分で貞世の食事を作ってやるために宿直室のそばにある小さな庖厨《ほうちゅう》に行って、洋食店から届けて来たソップを温《あたた》めて塩で味をつけている間も、だんだん起き出て来る看護婦たちに貞世の昨夜の経過を誇りがに話して聞かせた。病室に帰って見ると、愛子がすでに目ざめた貞世に朝じまいをさせていた。熱が下がったのできげんのよかるべき貞世はいっそうふきげんになって見えた。愛子のする事一つ一つに故障をいい立てて、なかなかいう事を聞こうとはしなかった。熱の下がったのに連れて始めて貞世の意志が人間らしく働き出したのだと葉子は気がついて、それも許さなければならない事だと、自分の事のように心で弁疏《べんそ》した。ようやく洗面が済んで、それから寝台の周囲を整頓《せいとん》するともう全く朝になっていた。けさこそは貞世がきっと賞美しながら食事を取るだろうと葉子はいそいそとたけの高い食卓を寝台の所に持って行った。
 その時思いがけなくも朝がけに倉地が見舞いに来た。倉地も涼しげな単衣《ひとえ》に絽《ろ》の羽織《はおり》を羽織ったままだった。その強健な、物を物ともしない姿は夏の朝の気分としっくり[#「しっくり」に傍点]そぐって見えたばかりでなく、その日に限って葉子は絵島丸の中で語り合った倉地を見いだしたように思って、その寛濶《かんかつ》な様子がなつかしくのみながめられた。倉地もつとめて葉子の立ち直った気分に同《どう》じているらしかった。それが葉子をいっそう快活にした。葉子は久しぶりでその銀の鈴のような澄みとおった声で高調子に物をいいながら二言《ふたこと》目には涼しく笑った。
 「さ、貞《さあ》ちゃん、ねえさんが上手《じょうず》に味をつけて来て上げたからソップを召し上がれ。けさはきっとおいしく食べられますよ。今までは熱で味も何もなかったわね、かわいそうに」
 そういって貞世の身ぢかに椅子《いす》を占めながら、糊《のり》の強いナフキンを枕《まくら》から喉《のど》にかけてあてがってやると、貞世の顔は愛子のいうようにひどく青味がかって見えた。小さな不安が葉子の頭をつきぬけた。葉子は清潔な銀の匙《さじ》に少しばかりソップをしゃくい上げて貞世の口もとにあてがった。
 「まずい」
 貞世はちらっと[#「ちらっと」に傍点]姉をにらむように盗み見て、口にあるだけのソップをしいて飲みこんだ。
 「おやどうして」
 「甘ったらしくって」
 「そんなはずはないがねえ。どれそれじゃも少し塩を入れてあげますわ」
 葉子は塩をたしてみた。けれども貞世はうまいとはいわなかった。また一口飲み込むともうい
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