のいる事なども忘れて、急ぎ足でそのほうに走り近づいた。
「そらもう帰っていらっしゃいましたよ」
といいながら顔を引っ込めた看護婦に続いて、飛び込むように病室にはいって見ると、貞世は乱暴にも寝台の上に起き上がって、膝《ひざ》小僧もあらわになるほど取り乱した姿で、手を顔にあてたままおいおいと泣いていた。葉子は驚いて寝台に近寄った。
「なんというあなたは聞きわけのない……貞《さあ》ちゃんその病気で、あなた、寝台から起き上がったりするといつまでもなおりはしませんよ。あなたの好きな倉地のおじさんと岡さんがお見舞いに来てくださったのですよ。はっきり[#「はっきり」に傍点]わかりますか、そら、そこを御覧、横になってから」
そう言い言い葉子はいかにも愛情に満ちた器用な手つきで軽く貞世をかかえて床の上に臥《ね》かしつけた。貞世の顔は今まで盛んな運動でもしていたように美しく活々《いきいき》と紅味《あかみ》がさして、ふさふさした髪の毛は少しもつれて汗ばんで額ぎわに粘りついていた。それは病気を思わせるよりも過剰の健康とでもいうべきものを思わせた。ただその両眼と口びるだけは明らかに尋常でなかった。すっかり充血したその目はふだんよりも大きくなって、二重《ふたえ》まぶたになっていた。そのひとみは熱のために燃えて、おどおどと何者かを見つめているようにも、何かを見いだそうとして尋ねあぐんでいるようにも見えた。その様子はたとえば葉子を見入っている時でも、葉子を貫いて葉子の後ろの方《かた》はるかの所にある或《あ》る者を見きわめようとあらん限りの力を尽くしているようだった。口びるは上下ともからからになって内紫《うちむらさき》という柑類《かんるい》の実をむいて天日《てんぴ》に干したようにかわいていた。それは見るもいたいたしかった。その口びるの中から高熱のために一種の臭気が呼吸のたびごとに吐き出される、その臭気が口びるの著しいゆがめかたのために、目に見えるようだった。貞世は葉子に注意されて物惰《ものう》げに少し目をそらして倉地と岡とのいるほうを見たが、それがどうしたんだというように、少しの興味も見せずにまた葉子を見入りながらせっせ[#「せっせ」に傍点]と肩をゆすって苦しげな呼吸をつづけた。
「おねえさま……水……氷……もういっちゃいや……」
これだけかすかにいうともう苦しそうに目をつぶってほろほろと大粒の涙をこぼすのだった。
倉地は陰鬱《いんうつ》な雨脚《あまあし》で灰色になったガラス窓を背景にして突っ立ちながら、黙ったまま不安らしく首をかしげた。岡は日ごろのめったに泣かない性質に似ず、倉地の後ろにそっ[#「そっ」に傍点]と引きそって涙ぐんでいた。葉子には後ろを振り向いて見ないでもそれが目に見るようにはっきり[#「はっきり」に傍点]わかった。貞世の事は自分|一人《ひとり》で背負って立つ。よけいなあわれみはかけてもらいたくない。そんないらいらしい反抗的な心持ちさえその場合起こらずにはいなかった。過ぐる十日というもの一度も見舞う事をせずにいて、今さらその由々《ゆゆ》しげな顔つきはなんだ。そう倉地にでも岡にでもいってやりたいほど葉子の心はとげとげしくなっていた。で、葉子は後ろを振り向きもせずに、箸《はし》の先につけた脱脂綿《だっしめん》を氷水の中に浸しては、貞世の口をぬぐっていた。
こうやってもののやや二十分が過ぎた。飾りけも何もない板張りの病室にはだんだん夕暮れの色が催して来た。五月雨《さみだれ》はじめじめと小休《おや》みなく戸外では降りつづいていた。「おねえ様なおしてちょうだいよう」とか「苦しい……苦しいからお薬をください」とか「もう熱を計るのはいや」とか時々|囈言《うわごと》のように言っては、葉子の手にかじりつく貞世の姿はいつ息気《いき》を引き取るかもしれないと葉子に思わせた。
「ではもう帰りましょうか」
倉地が岡を促すようにこういった。岡は倉地に対し葉子に対して少しの間《あいだ》返事をあえてするのをはばかっている様子だったが、とうとう思いきって、倉地に向かって言っていながら少し葉子に対して嘆願するような調子で、
「わたし、きょうはなんにも用がありませんから、こちらに残らしていただいて、葉子さんのお手伝いをしたいと思いますから、お先にお帰りください」
といった。岡はひどく意志が弱そうに見えながら一度思い入っていい出した事は、とうとう仕畢《しおお》せずにはおかない事を、葉子も倉地も今までの経験から知っていた。葉子は結局それを許すほかはないと思った。
「じゃわしはお先するがお葉さんちょっと……」
といって倉地は入り口のほうにしざって行った。おりから貞世はすやすやと昏睡《こんすい》に陥っていたので、葉子はそっ[#「そっ」に傍点]と自分の袖《そで》を
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