うに飛んで過ぎた。死のほうへ貞世を連れて行く時間はただ矢のように飛んで過ぎると思えた。
この奇怪な心の葛藤《かっとう》に加えて、葉子の健康はこの十日ほどの激しい興奮と活動とでみじめにもそこない傷つけられているらしかった。緊張の極点にいるような今の葉子にはさほどと思われないようにもあったが、貞世が死ぬかなおるかして一息つく時が来たら、どうして肉体をささえる事ができようかと危ぶまないではいられない予感がきびしく葉子を襲う瞬間は幾度もあった。
そうした苦しみの最中に珍しく倉地が尋ねて来たのだった。ちょうど何もかも忘れて貞世の事ばかり気にしていた葉子は、この案内を聞くと、まるで生まれかわったようにその心は倉地でいっぱいになってしまった。
病室の中から叫びに叫ぶ貞世の声が廊下まで響いて聞こえたけれども、葉子はそれには頓着《とんじゃく》していられないほどむきになって看護婦のあとを追った。歩きながら衣紋《えもん》を整えて、例の左手をあげて鬢《びん》の毛を器用にかき上げながら、応接室の所まで来ると、そこはさすがにいくぶんか明るくなっていて、開き戸のそばのガラス窓の向こうに頑丈《がんじょう》な倉地と、思いもかけず岡の華車《きゃしゃ》な姿とがながめられた。
葉子は看護婦のいるのも岡のいるのも忘れたようにいきなり[#「いきなり」に傍点]倉地に近づいて、その胸に自分の顔を埋《うず》めてしまった。何よりもかによりも長い長い間あい得ずにいた倉地の胸は、数限りもない連想に飾られて、すべての疑惑や不快を一掃するに足るほどなつかしかった。倉地の胸から触れ慣れた衣《きぬ》ざわりと、強烈な膚のにおいとが、葉子の病的に嵩《こう》じた感覚を乱酔さすほどに伝わって来た。
「どうだ、ちっとはいいか」
「おゝこの声だ、この声だ」……葉子はかく思いながら悲しくなった。それは長い間|闇《やみ》の中に閉じこめられていたものが偶然|灯《ひ》の光を見た時に胸を突いてわき出て来るような悲しさだった。葉子は自分の立場をことさらあわれに描いてみたい衝動を感じた。
「だめです。貞世は、かわいそうに死にます」
「ばかな……あなたにも似合わん、そう早《はよ》う落胆する法があるものかい。どれ一つ見舞ってやろう」
そういいながら倉地は先刻からそこにいた看護婦のほうに振り向いた様子だった。そこに看護婦も岡もいるという事はちゃんと知っていながら、葉子はだれもいないもののような心持ちで振る舞っていたのを思うと、自分ながらこのごろは心が狂っているのではないかとさえ疑った。看護婦は倉地と葉子との対話ぶりで、この美しい婦人の素性《すじょう》をのみ込んだというような顔をしていた。岡はさすがにつつましやかに心痛の色を顔に現わして椅子《いす》の背に手をかけたまま立っていた。
「あゝ、岡さんあなたもわざわざお見舞いくださってありがとうございました」
葉子は少し挨拶《あいさつ》の機会をおくらしたと思いながらもやさしくこういった。岡は頬《ほお》を紅《あか》らめたまま黙ってうなずいた。
「ちょうど今見えたもんだで御一緒したが、岡さんはここでお帰りを願ったがいいと思うが……(そういって倉地は岡のほうを見た)何しろ病気が病気ですから……」
「わたし、貞世さんにぜひお会いしたいと思いますからどうかお許しください」
岡は思い入ったようにこういって、ちょうどそこに看護婦が持って来た二枚の白い上《うわ》っ張《ぱ》りのうち少し古く見える一枚を取って倉地よりも先に着始めた。葉子は岡を見るともう一つのたくらみ[#「たくらみ」に傍点]を心の中で案じ出していた。岡をできるだけたびたび山内《さんない》の家のほうに遊びに行かせてやろう。それは倉地と愛子とが接触する機会をいくらかでも妨げる結果になるに違いない。岡と愛子とが互いに愛し合うようになったら……なったとしてもそれは悪い結果という事はできない。岡は病身ではあるけれども地位もあれば金もある。それは愛子のみならず、自分の将来に取っても役に立つに相違ない。……とそう思うすぐその下から、どうしても虫の好《す》かない愛子が、葉子の意志の下《もと》にすっかり[#「すっかり」に傍点]つなぎつけられているような岡をぬすんで行くのを見なければならないのが面《つら》憎くも妬《ねた》ましくもあった。
葉子は二人《ふたり》の男を案内しながら先に立った。暗い長い廊下の両側に立ちならんだ病室の中からは、呼吸困難の中からかすれたような声でディフテリヤらしい幼児の泣き叫ぶのが聞こえたりした。貞世の病室からは一人《ひとり》の看護婦が半ば身を乗り出して、部屋《へや》の中に向いて何かいいながら、しきりとこっちをながめていた。貞世の何かいい募る言葉さえが葉子の耳に届いて来た。その瞬間にもう葉子はそこに倉地
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