]とした。貞世はああしたままで通り魔にでも魅いられて死んでいるのではないか。それとももう一度名前を呼んだら、線香の上にたまった灰が少しの風でくずれ落ちるように、声の響きでほろほろとかき消すようにあのいたいけな姿はなくなってしまうのではないだろうか。そしてそのあとには夕闇に包まれた苔香園の木立ちと、二階の縁側と、小さな机だけが残るのではないだろうか。……ふだんの葉子ならばなんというばかだろうと思うような事をおどおどしながらまじめに考えていた。
 その時階下で倉地のひどく激昂《げきこう》した声が聞こえた。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]として長い悪夢からでもさめたようにわれに帰った。そこにいるのは姿は元のままだが、やはりまごうかたなき貞世だった。葉子はあわてていつのまにか膝《ひざ》からずり落としてあった白布を取り上げて、階下のほうにきっ[#「きっ」に傍点]と聞き耳を立てた。事態はだいぶ大事らしかった。
 「貞《さあ》ちゃん。……貞ちゃん……」
 葉子はそういいながら立ち上がって行って、貞世を後ろから羽《は》がいに抱きしめてやろうとした。しかしその瞬間に自分の胸の中に自然に出来上がらしていた結願《けちがん》を思い出して、心を鬼にしながら、
 「貞《さあ》ちゃんといったらお返事をなさいな。なんの事です拗《す》ねたまね[#「まね」に傍点]をして。台所に行ってあとのすすぎ返しでもしておいで、勉強もしないでぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]していると毒ですよ」
 「だっておねえ様わたし苦しいんですもの」
 「うそをお言い。このごろはあなたほんとうにいけなくなった事。わがままばかししているとねえさんはききませんよ」
 貞世はさびしそうな恨めしそうな顔をまっ赤《か》にして葉子のほうを振り向いた。それを見ただけで葉子はすっかり[#「すっかり」に傍点]打ちくだかれていた。水落《みぞおち》のあたりをすっ[#「すっ」に傍点]と氷の棒でも通るような心持ちがすると、喉《のど》の所はもう泣きかけていた。なんという心に自分はなってしまったのだろう……葉子はその上その場にはいたたまれないで、急いで階下のほうへ降りて行った。
 倉地の声にまじって古藤の声も激して聞こえた。

    四一

 階子段《はしごだん》の上がり口には愛子が姉を呼びに行こうか行くまいかと思案するらしく立っていた。そこを通り抜けて自分の部屋《へや》に来て見ると、胸毛《むなげ》をあらわ[#「あらわ」に傍点]に襟《えり》をひろげて、セルの両|袖《そで》を高々とまくり上げた倉地が、あぐらをかいたまま、電灯の灯《ひ》の下に熟柿《じゅくし》のように赤くなってこっち[#「こっち」に傍点]を向いて威丈高《いたけだか》になっていた。古藤《ことう》は軍服の膝《ひざ》をきちん[#「きちん」に傍点]と折ってまっすぐに固くすわって、葉子には後ろを向けていた。それを見るともう葉子の神経はびり[#「びり」に傍点]びりと逆立《さかだ》って自分ながらどうしようもないほど荒れすさんで来ていた。「何もかもいやだ、どうでも勝手になるがいい。」するとすぐ頭が重くかぶさって来て、腹部の鈍痛が鉛の大きな球《たま》のように腰をしいたげた。それは二重に葉子をいらいらさせた。
 「あなた方《がた》はいったい何をそんなにいい合っていらっしゃるの」
 もうそこには葉子はタクトを用いる余裕さえ持っていなかった。始終腹の底に冷静さを失わないで、あらん限りの表情を勝手に操縦してどんな難関でも、葉子に特有なしかたで切り開いて行くそんな余裕はその場にはとても出て来なかった。
 「何をといってこの古藤という青年はあまり礼儀をわきまえんからよ。木村さんの親友親友と二言《ふたこと》目には鼻にかけたような事をいわるるが、わしもわしで木村さんから頼まれとるんだから、一人《ひとり》よがりの事はいうてもらわんでもがいいのだ。それをつべこべ[#「つべこべ」に傍点]ろくろくあなたの世話も見ずにおきながら、いい立てなさるので、筋が違っていようといって聞かせて上げたところだ。古藤さん、あなた失礼だがいったいいくつです」
 葉子にいって聞かせるでもなくそういって、倉地はまた古藤のほうに向き直った。古藤はこの侮辱に対して口答えの言葉も出ないように激昂《げきこう》して黙っていた。
 「答えるが恥ずかしければしいても聞くまい。が、いずれ二十《はたち》は過ぎていられるのだろう。二十過ぎた男があなたのように礼儀をわきまえずに他人《ひと》の生活の内輪にまで立ち入って物をいうはばかの証拠ですよ。男が物をいうなら考えてからいうがいい」
 そういって倉地は言葉の激昂《げきこう》している割合に、また見かけのいかにも威丈高《いたけだか》な割合に、充分の余裕を見せて、空うそぶくように打ち水をした庭のほうを
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