記憶は哀《かな》しくなつかしいものとして死ぬまで葉子の胸に刻みつけられていたろうものを。……それはそうに相違ない。それにしても木村は気の毒な男だ。自分の愛しようとする人が他人に心をひかれている……それを発見する事だけで悲惨は充分だ。葉子はほんとうは、倉地は葉子以外の人に心をひかれているとは思ってはいないのだ。ただ少し葉子から離れて来たらしいと疑い始めただけだ。それだけでも葉子はすでに熱鉄をのまされたような焦躁と嫉妬《しっと》とを感ずるのだから、木村の立場はさぞ苦しいだろう。……そう推察すると葉子は自分のあまりといえばあまりに残虐な心に胸の中がちく[#「ちく」に傍点]ちくと刺されるようになった。「金が手を焼くように思いはしませんか」との古藤のいった言葉が妙に耳に残った。
そう思い思い布の一方を手早く縫い終わって、縫い目を器用にしごきながら目をあげると、そこには貞世がさっきのまま机に両|肘《ひじ》をついて、たかって来る蚊も追わずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と庭の向こうを見続けていた。切り下げにした厚い黒漆《こくしつ》の髪《かみ》の毛の下にのぞき出した耳たぶは霜焼けでもしたように赤くなって、それを見ただけでも、貞世は何か興奮して向こうを向きながら泣いているに違いなく思われた。覚えがないではない。葉子も貞世ほどの齢《とし》の時には何か知らず急に世の中が悲しく見える事があった。何事もただ明るく快く頼もしくのみ見えるその底からふっ[#「ふっ」に傍点]と悲しいものが胸をえぐってわき出る事があった。取り分けて快活ではあったが、葉子は幼い時から妙な事に臆病《おくびょう》がる子だった。ある時家族じゅうで北国のさびしい田舎《いなか》のほうに避暑に出かけた事があったが、ある晩がらん[#「がらん」に傍点]と客の空《す》いた大きな旅籠屋《はたごや》に宿《とま》った時、枕《まくら》を並べて寝た人たちの中で葉子は床の間に近いいちばん端《はし》に寝かされたが、どうしたかげんでか気味が悪くてたまらなくなり出した。暗い床の間の軸物の中からか、置き物の陰からか、得体《えたい》のわからないものが現われ出て来そうなような気がして、そう思い出すとぞく[#「ぞく」に傍点]ぞくと総身に震えが来て、とても頭を枕につけてはいられなかった。で、眠りかかった父や母にせがんで、その二人《ふたり》の中に割りこましてもらおうと思ったけれども、父や母もそんなに大きくなって何をばかをいうのだといって少しも葉子のいう事を取り上げてはくれなかった。葉子はしばらく両親と争っているうちにいつのまにか寝入ったと見えて、翌日目をさまして見ると、やはり自分が気味の悪いと思った所に寝ていた自分を見いだした。その夕方、同じ旅籠屋《はたごや》の二階の手摺《てすり》から少し荒れたような庭を何の気なしにじっ[#「じっ」に傍点]と見入っていると、急に昨夜の事を思い出して葉子は悲しくなり出した。父にも母にも世の中のすべてのものにも自分はどうかして見放されてしまったのだ。親切らしくいってくれる人はみんな自分に虚事《うそ》をしているのだ。いいかげんの所で自分はどん[#「どん」に傍点]とみんなから突き放されるような悲しい事になる[#底本では「悲しい事にある」]に違いな「。どうしてそれを今まで気づかずにいたのだろう。そうなった暁《あかつき》に一人《ひとり》でこの庭をこうして見守ったらどんなに悲しいだろう。小さいながらにそんな事を一人で思いふけっているともうとめどなく悲しくなって来て父がなんといっても母がなんといっても、自分の心を自分の涙にひたしきって泣いた事を覚えている。
葉子は貞世の後ろ婆を見るにつけてふと[#「ふと」に傍点]その時の自分を思い出した。妙な心の働きから、その時の葉子が貞世になってそこに幻のように現われたのではないかとさえ疑った。これは葉子には始終ある癖だった。始めて起こった事が、どうしてもいつかの過去にそのまま起こった事のように思われてならない事がよくあった。貞世の姿は貞世ではなかった。苔香園《たいこうえん》は苔香園ではなかった。美人屋敷は美人屋敷ではなかった。周囲だけが妙にもやもやして心《しん》のほうだけが澄みきった水のようにはっきり[#「はっきり」に傍点]したその頭の中には、貞世のとも、幼い時の自分のとも区別のつかないはかなさ悲しさがこみ上げるようにわいていた。葉子はしばらくは針の運びも忘れてしまって、電灯の光を背に負って夕闇《ゆうやみ》に埋もれて行く木立ちにながめ入った貞世の姿を、恐ろしさを感ずるまでになりながら見続けた。
「貞《さあ》ちゃん」
とうとう黙っているのが無気味《ぶきみ》になって葉子は沈黙を破りたいばかりにこう呼んでみた。貞世は返事一つしなかった。……葉子はぞっ[#「ぞっ」に傍点
前へ
次へ
全117ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング