まだにらまれずにいたんでしたから……時に奥さん」
 そういって折り入って相談でもするように正井は煙草盆を押しのけて膝《ひざ》を乗り出すのだった。人を侮ってかかって来ると思うと葉子はぐっ[#「ぐっ」に傍点]と癪《しゃく》にさわった。しかし以前のような葉子はそこにはいなかった。もしそれが以前であったら、自分の才気と力量と美貌《びぼう》とに充分の自信を持つ葉子であったら、毛の末ほども自分を失う事なく、優婉《ゆうえん》に円滑に男を自分のかけた陥穽《わな》の中におとしいれて、自縄自縛《じじょうじばく》の苦《にが》い目にあわせているに違いない。しかし現在の葉子はたわいもなく敵を手もとまでもぐりこませてしまってただいらいらとあせるだけだった。そういう破目《はめ》になると葉子は存外力のない自分であるのを知らねばならなかった。
 正井は膝《ひざ》を乗り出してから、しばらく黙って敏捷《びんしょう》に葉子の顔色をうかがっていたが、これなら大丈夫と見きわめをつけたらしく、
 「少しばかりでいいんです、一つ融通《ゆうずう》してください」
 と切り出した。
 「そんな事をおっしゃったって、わたしにどうしようもないくらいは御存じじゃありませんか。そりゃ余人じゃなし、できるのならなんとかいたしますけれども、姉妹三人がどうかこうかして倉地に養われている今日《こんにち》のような境界《きょうがい》では、わたしに何ができましょう。正井さんにも似合わない的《まと》違いをおっしゃるのね。倉地なら御相談にもなるでしょうから面と向かってお話しくださいまし。中にはいるとわたしが困りますから」
 葉子は取りつく島もないようにといや味な調子でずけ[#「ずけ」に傍点]ずけとこういった。正井はせせら笑うようにほほえんで金口の灰を静かに灰吹きに落とした。
 「もう少しざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]にいってくださいよきのうきょうのお交際《つきあい》じゃなし。倉地さんとまずくなったくらいは御承知じゃありませんか。……知っていらっしってそういう口のききかたは少しひど過ぎますぜ、(ここで仮面を取ったように正井はふてくされた態度になった。しかし言葉はどこまでも穏当だった。)きらわれたってわたしは何も倉地さんをどうしようのこうしようのと、そんな薄情な事はしないつもりです。倉地さんにけががあればわたしだって同罪以上ですからね。……しかし……一つなんとかならないもんでしょうか」
 葉子の怒りに興奮した神経は正井のこの一言《ひとこと》にすぐおびえてしまった。何もかも倉地の裏面を知り抜いてるはずの正井が、捨てばちになったら倉地の身の上にどんな災難が降りかからぬとも限らぬ。そんな事をさせては飛んだ事になるだろう。そんな事をさせては飛んだ事になる。葉子はますます弱身《よわみ》になった自分を救い出す術《すべ》に困《こう》じ果てていた。
 「それを御承知でわたしの所にいらしったって……たといわたしに都合がついたとしたところで、どうしようもありませんじゃないの。なんぼわたしだっても、倉地と仲たがえをなさったあなたに倉地の金を何する……」
 「だから倉地さんのものをおねだりはしませんさ。木村さんからもたんまり[#「たんまり」に傍点]来ているはずじゃありませんか。その中から……たんとたあいいませんから、窮境を助けると思ってどうか」
 正井は葉子を男たらしと見くびった態度で、情夫を持ってる妾《めかけ》にでも逼《せま》るようなずうずうしい顔色を見せた。こんな押し問答の結果葉子はとうとう正井に三百円ほどの金をむざ[#「むざ」に傍点]むざとせびり取られてしまった。葉子はその晩倉地が帰って来た時もそれをいい出す気力はなかった。貯金は全部定子のほうに送ってしまって、葉子の手もとにはいくらも残ってはいなかった。
 それからというもの正井は一週間とおかずに葉子の所に来ては金をせびった。正井はそのおりおりに、絵島丸のサルンの一隅《いちぐう》に陣取って酒と煙草《たばこ》とにひたりながら、何か知らんひそひそ話をしていた数人の人たち――人を見ぬく目の鋭い葉子にもどうしてもその人たちの職業を推察し得なかった数人の人たちの仲間に倉地がはいって始め出した秘密な仕事の巨細《こさい》をもらした。正井が葉子を脅かすために、その話には誇張が加えられている、そう思って聞いてみても、葉子の胸をひやっ[#「ひやっ」に傍点]とさせる事ばかりだった。倉地が日清《にっしん》戦争にも参加した事務長で、海軍の人たちにも航海業者にも割合に広い交際がある所から、材料の蒐集《しゅうしゅう》者としてその仲間の牛耳《ぎゅうじ》を取るようになり、露国や米国に向かってもらした祖国の軍事上の秘密はなかなか容易ならざるものらしかった。倉地の気分がすさんで行くのももっともだと思われ
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