そう唾《つば》でも吐き捨てるようにいまいましげに倉地があらわ[#「あらわ」に傍点]にいうような日も来た。
「どうすればいいんだろう」
そういって額《ひたい》の所に手をやって頭痛を忍びながら葉子はひとり苦しまねばならなかった。
ある日葉子は思いきってひそかに医師を訪れた。医師は手もなく、葉子のすべての悩みの原因は子宮|後屈《こうくつ》症と子宮内膜炎とを併発しているからだといって聞かせた。葉子はあまりにわかりきった事を医師がさも知ったかぶりにいって聞かせるようにも、またそののっぺりした白い顔が、恐ろしい運命が葉子に対して装うた仮面で、葉子はその言葉によってまっ暗な行く手を明らかに示されたようにも思った。そして怒りと失望とをいだきながらその家を出た。帰途葉子は本屋に立ち寄って婦人病に関する大部な医書を買い求めた。それは自分の病症に関する徹底的な知識を得ようためだった。家に帰ると自分の部屋《へや》に閉じこもってすぐ大体を読んで見た。後屈症は外科手術を施して位置|矯正《きょうせい》をする事によって、内膜炎は内膜炎を抉掻《けっそう》する事によって、それが器械的の発病である限り全治の見込みはあるが、位置矯正の場合などに施術者《しじゅつしゃ》の不注意から子宮底に穿孔《せんこう》を生じた時などには、往々にして激烈な腹膜炎を結果する危険が伴わないでもないなどと書いてあった。葉子は倉地に事情を打ち明けて手術を受けようかとも思った。ふだんならば常識がすぐそれを葉子にさせたに違いない。しかし今はもう葉子の神経は極度に脆弱《ぜいじゃく》になって、あらぬ方向にばかりわれにもなく鋭く働くようになっていた。倉地は疑いもなく自分の病気に愛想を尽かすだろう。たといそんな事はないとしても入院の期間に倉地の肉の要求が倉地を思わぬほうに連れて行かないとはだれが保証できよう。それは葉子の僻見《へきけん》であるかもしれない、しかしもし愛子が倉地の注意をひいているとすれば、自分の留守の間に倉地が彼女に近づくのはただ一歩の事だ。愛子があの年であの無経験で、倉地のような野性と暴力とに興味を持たぬのはもちろん、一種の厭悪《けんお》をさえ感じているのは察せられないではない。愛子はきっと倉地を退けるだろう。しかし倉地には恐ろしい無恥がある。そして一度倉地が女をおのれの力の下に取りひしいだら、いかなる女も二度と倉地からのがれる事のできないような奇怪の麻酔《ますい》の力を持っている。思想とか礼儀とかにわずらわされない、無尽蔵に強烈で征服的な生《き》のままな男性の力はいかな女をもその本能に立ち帰らせる魔術を持っている。しかもあの柔順らしく見える愛子は葉子に対して生まれるとからの敵意を挟《さしはさtんでいるのだ。どんな可能でも描いて見る事ができる。そう思うと葉子はわが身でわが身を焼くような未練と嫉妬《しっと》のために前後も忘れてしまった。なんとかして倉地を縛り上げるまでは葉子は甘んじて今の苦痛に堪《た》え忍ぼうとした。
そのころからあの正井という男が倉地の留守をうかがっては葉子に会いに来るようになった。
「あいつは犬だった。危うく手をかませる所だった。どんな事があっても寄せ付けるではないぞ」
と倉地が葉子にいい聞かせてから一週間もたたない後に、ひょっこり正井が顔を見せた。なかなかのしゃれ[#「しゃれ」に傍点]者で、寸分のすきもない身なりをしていた男が、どこかに貧窮をにおわすようになっていた。カラーにはうっすり汗じみができて、ズボンの膝《ひざ》には焼けこげの小さな孔《あな》が明いたりしていた。葉子が上げる上げないもいわないうちに、懇意ずくらしくどんどん玄関から上がりこんで座敷に通った。そして高価らしい西洋菓子の美しい箱を葉子の目の前に風呂敷《ふろしき》から取り出した。
「せっかくおいでくださいましたのに倉地さんは留守ですから、はばかりですが出直してお遊びにいらしってくださいまし。これはそれまでお預かりおきを願いますわ」
そういって葉子は顔にはいかにも懇意を見せながら、言葉には二の句がつげないほどの冷淡さと強さとを示してやった。しかし正井はしゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあとして平気なものだった。ゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]内衣嚢《うちがくし》から巻煙草《まきたばこ》入れを取り出して、金口《きんぐち》を一本つまみ取ると、炭の上にたまった灰を静かにかきのけるようにして火をつけて、のどかに香《かお》りのいい煙を座敷に漂わした。
「お留守ですか……それはかえって好都合でした……もう夏らしくなって来ましたね、隣の薔薇《ばら》も咲き出すでしょう……遠いようだがまだ去年の事ですねえ、お互い様に太平洋を往《い》ったり来たりしたのは……あのころがおもしろい盛りでしたよ。わたしたちの仕事も
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